通勤路の金次郎くん

「二宮金次郎」のちの「二宮尊徳」
昔はどこの小学校でも校門の横とか
校庭の隅とかに居た子ですね。
 
この子のプロフィールご存知ですか?
「偉人」とご記憶かもしれません。
 
金次郎は裕福な農家の長男に生まれる。
5歳の時に自然災害で田畑も家もなくし
14歳で父が亡くなってからは
昼も夜も働き、借金を返しながら
一家を支え、薪を売りに行く道中も
時間を惜しんで歩きながら学びます。
16歳で母を亡くし苦労を重ねますが
20代で家を再興してからは
多くの村や地域の救済や再興を行い
貧困に苦しむ人を救います。
後に幕府の役人になり
生涯600以上の村を立て直した
地方創生のパイオニアです。
   
銅像のスタイルは『負薪読書』
金次郎の弟子の高田高慶が
金次郎の没後に出した『報徳記』に
描かれた姿に基づいたものだそうです。
 
銅像が立てられ始めたのは大正時代。
最初は国の政策の為でしたが
純粋に勤労・勤勉のモデルとして
小学校に立てられるように。

けれど銅像は各時代に
様々な理由で撤去されていきます。
戦時中は兵器に作りかえる為。
高度成長期には車が増えて
歩きながらの読書は危ないから…と。
 
最近では「歩きスマホ」に通ずると
撤去される銅像も少なくなく
座って読書する金次郎くんもいるとか。

歩きながらの読書は危険。
でも目に見える銅像の形ではなく
貧しくても学ぶことを諦めず
働きながらも時間を惜しんで学び
多くの功績を残した二宮金次郎。
その生き方と銅像の意味を
ちゃんと伝えていきたいものです。

通勤路の金次郎くんは
今日も本を片手に勉強中。

彼岸花

田んぼの稲が金色に輝く頃
畦道では彼岸花が満開に。
毎年この光景を見ると
秋だなぁと思う。
 
子どもの頃、畦道の彼岸花を
一輪摘んで家に持ち帰り
母に叱られたことがある。
  
確かに墓地によく生えてて
縁起が悪いと言われるし毒もある。
でもそんなに嫌わなくても…。

たぶん「彼岸花」の名前も
嫌がられる一因なんですよね。
でも「曼殊沙華」とも言うよ。
この名前なら悪くないでしょ。
サンスクリット語で「天界に咲く花」

畦道によく生えているのは
その毒でモグラやネズミから
稲や作物を守るため。
墓地に生えているのは
埋蔵された遺体を守るため。
もともとは人が植えたという話も。
 
ともあれ秋の訪れを教えてくれる。
10月になっても暑い日が続くと
人間はすっかり油断して衣替えもせず
寒くなってから慌てふためく。
薄い布団で寝て体調を崩して
「急に寒くなった」と言う。
  
彼岸花が満開になり
金色の稲穂が首を垂れると秋。 
そう。
変わる季節を教えてくれるのは
気象庁ではなく、いつも自然。

秋は短く冬の知らせはもうすぐ。

大村益次郎

事務所から北東に徒歩10分
上町交差点の右には難波宮跡公園
その向こう側に大阪城が。
左の大阪医療センターの南東角に
大きな石碑がそびえ立っています。

兵部大輔 大村益次郎卿 殉難報國之碑
  
大村益次郎が動乱の時代を生き
その一生を終えた場所。
学校で学んだり、小説やドラマで
その名を耳にしたことはあると思います。
   
優秀な医者であり、兵学者であり、
日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる
維新十傑のひとり大村益次郎。
 
===================
 
大村益次郎は文政七年(1824年)
周防の町医者の家に生まれる。
弘化3年(1846)23歳で来坂し適塾に。
僅か1年で塾頭になっている。
 
明治2年(1869)兵部大輔に任ぜられ、
近代陸軍兵制の確立に尽力したが
反感を持つ不平士族に
同年9月に京都木屋町で襲撃された。
 
右脚に重傷を負ったが
京都では適切な治療ができず
上町大福寺から移転した浪華仮病院へ。
右脚切断の手術をうけたがすでに手後れ
敗血症のため死亡した。 
   
その切断された脚は大村の遺志により、
師である緒方洪庵夫妻の傍らに
寄り添うように葬られている。
 
===================
 
石碑が立つのは浪華仮病院のあった場所。
ここは後に国立大阪病院となり
現大阪医療センターへと繋がります。
 
幕末から明治へと
この時代に日本を変えようと
命懸けで駆け抜けた志高い人々と同様に
大村益次郎も小説などでは
色々な描き方をされています。
 
でも人々の命を救おう。
ひとつの国の未来を変えようと
日本が大きく動きだした時代に
大きな力となり、散ったことは事実。
 
大村益次郎にご興味があれば
「花神」司馬遼太郎著 をぜひ。
季節はまもなく読書の秋です。
  
※2021年11月のDialy
「浪華仮病院跡」もご参考に 

西瓜

9月になってスーパーの果物売場は
無花果、葡萄、梨…とすっかり秋。
つい先日まで主役は西瓜だった。
西瓜が果物か野菜かはおいといて
スーパーでは100%果物売場にある。
 
子どもの頃、夏になるといつも
冷蔵庫の棚がひとつ外してあり
二段分の棚は大きな西瓜専用だった。

夏の暑い日に外から帰ったら
手を洗ってすぐに台所へとんでいく。
まな板に並んだ半月型の西瓜を
どれが大きいか見定めてから
自分のお皿に移してほおばった。
 
「種を食べたら盲腸になる」
いつも母がそういうので
几帳面にお箸でほじくりながら食べた。
でも中学一年生で盲腸になった。
次の夏から、種も食べた。 

「お腹の中で芽がでるわ」
今度はそう言われた。
でも種を食べ続けてもう何十年。
まだ一度も発芽していないし
おへそから蔓も出てこない。
 
いまも変わらず西瓜が好きだけど
さすがに一人暮らしだと
大きな西瓜ではなく
いつもこだま西瓜を買ってくる。
 
先日、道の駅のすみっこに置かれ
寂しそうに肩身が狭そうにしている
半額のこだま西瓜を買ってきた。
棚落ちしてるけど甘い。
今年最後の西瓜も種ごと食べた。

大阪城

事務所から15分も歩けば
大阪城が見えてくる。
見えてからがなかなか遠いけれど
行こうと思えば歩いて行ける。
 
「秀吉の城」が大阪城のイメージ。
でもその前に石山本願寺があった。
あの信長と戦った「石山合戦」だ。
 
その跡地に秀吉が15年をかけ築城。
規模は今の5倍以上だったらしい。
その大阪城もご存知のように
「大坂夏の陣」で落城し焼失。
  
そして徳川が秀吉の城の「上」に築城。
けれど落雷で天守閣の一部が焼失。
その後、明治維新の動乱で
大手門や多門櫓を残し天守閣は焼失。
明治維新後、この一帯は陸軍の管轄に。
  
今の天守閣は昭和6年に
初代大阪市長の関 一 氏が提案し
市民や豪商の募金で再建したもの。
でもまた建築物や天守閣の一部は
太平洋戦争の空襲で破損・焼失。

いまの大阪城天守閣は
戦後、公園とともに整備されたもの。
誰の城でもいいんです。
戦いに翻弄されながらも
多くの人の想いを抱きそこに立つ城。

天守閣にはエレベーターもある。
その時代毎に姿を変えて
今に至った城の歴史を考えると
それも自然に思えてくる。
 
大阪城周辺や上町台地には
古墳時代からの遺跡が眠っている。
飛鳥~奈良時代には難波宮があり
ここが日本の都だった。
 
今ここにいる私の下には
幾重にも重なった歴史がある。
詳しいことはわからなくても
1300年以上の歴史の重なりに
感謝の気持ちを込めて
思いを馳せることはできる。

なんだか大阪城の歴史が
つい最近の話のように思えてきた。

頑張る天邪鬼

コロナ禍で家にいる時間が増え
子供の頃に遊んだ場所や
自転車で探検した場所を
お散歩コースにして散策する。
  
不思議なほど町は子供の頃と変わらず
子供の頃は気に留めなかったことに
興味をもったり、色々感じたり。
見落としていたことにも気づき
新しい発見もあったりする。
  
自宅から2㎞程のところに
往時は堀を構えていた大きなお寺がある。
本堂の屋根からの雨水を受ける
天水受を支える天邪鬼が四隅にいる。
 
それぞれの真剣な表情が可笑しい。
頑張る様子が何だか愛らしい。
あちこちで仁王様や仏様に踏まれて
ぺちゃんこになってる天邪鬼とは違う
頑張って仕事をしている天邪鬼。
 
天邪鬼はきっと誰かに
「天水受に落ちた天からの法雨を
 こぼさず支えられるわけないね」
とでも言われたのだろう。
意地でもこぼさない!と必死で
バランスをとって支えている。
 
性格を利用してうまく使われちゃった。
なにしろ「あまのじゃく」ですから。 
 
「大変ね。頑張ってるね。」
頑張る天邪鬼をどこかで見かけたら
声をかけてみましょう。
「大丈夫だし…頑張ってないし」
とつぶやく声が聞こえるかも。
   
※天水受を支える天邪鬼はあちこちに。
 京都西本願寺や大阪一心寺にも。

カラーチップ

カラーチップ

それなに?と思う方
懐かしい…と思う方

?十年ほど前から…笑
印刷やデザインに関わってきた方は
このネタで話がどんどん広がり
一晩でも盛りあがれると思います。
  
簡単にざっくり言うと…
カラーチップは印刷の色見本。
   
色を正確に伝えることは
とても難しいこと。
特にシビアな色、例えば…
コーポレートカラーや商品のキーカラー
イメージカラーなどは正確に伝えて
共通認識を持つことが必要。
   
カラーチップは色を伝えるための道具。
 「赤はこれ」
 「ここはこの色ね」
と、小さな紙片を添付して
伝えたわけです。
  
カラーチップはもちろん現役で
デジタル版もあります。
でも私はこの紙のチップが好きで
時々ひっぱりだしてきます。
 
当時、印刷物をお願いする時は、
「このチップより少し沈んだ赤」
「これより深い黒でお願い」
と微妙なニュアンスを伝えながら
印刷屋さんと打合せしました。
今思えば、大切な楽しい時間でした。
 
効率と精度とスピードとひきかえに
消えていった大切なこともたくさん。

でも今の土台はそこに。
その時代を過ごしたことは
とっても大切な宝物。
  
※写真はDICのカラーチップ

浮世の月

谷町四丁目からちょっと北。
東側歩道にひっそり佇むのは
「此界隈井原西鶴終焉之地碑」
井原西鶴が人生を終えた場所です。

「浮世の月
 見過ごしにけり
 末二年」

井原西鶴の辞世の句。
この句には前書きがあります。

「人間五十年の研まり
 それさへ我には
 あまりたるに ましてや」

西鶴が生きた時代では
人生は50年と言われていました。
辞世の句は現代語にすると
こんな感じでしょうか。

「50年の人生は楽しかった。
 でもあまりにこの世は楽しく、
 二年余分にうっかりと
 生きてしまった。」

西鶴の人生最後の言葉は
戯作作家らしいシニカルな表現。
西鶴の一生も苦労が多々ありました。
でも「楽しかった」と。
 
当時と比べ、寿命は倍近くの現代。
心配事に時間を費やすのではなく
心配事を忘れるくらい楽しく
人生最後の時まで
うっかり過ごせたら
どんなに素敵でしょう。

「あぁ。楽しかった」と
旅立ちたいものです。

※井原西鶴(寛永19年~元禄6年)
 江戸時代の大坂の浮世草子
 人形浄瑠璃の作者であり俳諧師。
 別号は鶴永、二万翁、西鵬。

路地

高低差の大きい上町台地には
表通りの道から裏通りに繋がる
細い路地があちこちにある。
階段のついた路地や
通りに面した家の中を通るような
屋根のついた路地もある。
 
空堀界隈にも路地が多くあり
さながら迷路のように
「え?ここに出てくるんだ」
…な面白さもある。
でもそこは生活の場なので、
「おじゃまします」の気持ちで
そっと通らせて頂くことが大切。
 
この屋根のついた路地。
奥の長屋や借家への通路だったとか。
奥にある家への配慮で
遠回りせずに入れるように
表通りの家の1階の一部を
通路にして通れるようにしたとか。
他にも諸説ありますが、
奈良の「通り土間」や
京都の「通り庭」ともまた違った
独特の風情があります。
 
理由はどうあれ、その路地は
さながらタイムトンネル。
異次元への通路にも思えます。
 
いくつかの路地の向こうには
本当に昭和な空間があり
長屋が続く路地の奥には
大切に祀られたお地蔵さんや
お稲荷さんの古い社があったり
そっとしておきたい場所。
  
絶対に偶然には通らない場所に
素敵なカフェやバーも。
昔からの食堂やお好焼き屋さんや
雑貨や和装のお店があったりする。
 
もう何年もこの界隈を歩き回り
かなり土地勘はあるのだけれど
それでも行ったことあるのに
場所がわからない…こともある。

そういう場所はきっと
大切にそっとしておくべき場所。

水無月に水無月

日本に生まれてよかった…と
美しい景色に出会った時や
季節を感じた時、
そして長い歴史をもつ
季節の行事に触れた時
しみじみと思います。

季節の行事には
行事食というものがあります。
数多い行事食には
それぞれにちゃんと意味があります。
 
水無月には涼し気な
「水無月」という和菓子があります。
関西の方には馴染みがあり
毎年食べてる…という方も。
 
水無月は節分や土用の丑の日のように、
決まった日に食べる習慣があります。
 
水無月は三角の形をした和菓子で
ういろうに小豆をのせて固めたもの。
 
その由来は旧暦6月1日に氷を食べると、
夏に体調を崩すのを(夏バテですね)
予防する…という風習から。
 
6月1日の夏バテ?予防祈願は
室町時代の宮中で行われていた行事。
庶民には高級品の氷は手に入りません。
そこで、氷に似たお菓子を食べて
夏バテ予防をしたのが水無月の始まり。
 
三角形の形は氷の欠片や氷の角を表し、
小豆は邪気払いや悪魔祓いという意味が。
氷に手が届かなくても
季節を楽しもうとした庶民の知恵ですね。
 
6月30日に食べるのは
本格的な夏になる7月が来る前に
夏越の祓いで邪気を取り除き、
水無月を食べ暑い夏を乗り切る意味が。
 
でも、栄養価も高いし、
小豆は身体を温めてくれる。
氷よりいいよね?と思います。

そろそろ和菓子屋さんの店先に
水無月が並び始めました。
30日まで待たずフライングしてもOK。
この季節だけの楽しみ。
由来など思い浮かべながら
ゆっくり味わいたいものです。