西瓜

9月になってスーパーの果物売場は
無花果、葡萄、梨…とすっかり秋。
つい先日まで主役は西瓜だった。
西瓜が果物か野菜かはおいといて
スーパーでは100%果物売場にある。
 
子どもの頃、夏になるといつも
冷蔵庫の棚がひとつ外してあり
二段分の棚は大きな西瓜専用だった。

夏の暑い日に外から帰ったら
手を洗ってすぐに台所へとんでいく。
まな板に並んだ半月型の西瓜を
どれが大きいか見定めてから
自分のお皿に移してほおばった。
 
「種を食べたら盲腸になる」
いつも母がそういうので
几帳面にお箸でほじくりながら食べた。
でも中学一年生で盲腸になった。
次の夏から、種も食べた。 

「お腹の中で芽がでるわ」
今度はそう言われた。
でも種を食べ続けてもう何十年。
まだ一度も発芽していないし
おへそから蔓も出てこない。
 
いまも変わらず西瓜が好きだけど
さすがに一人暮らしだと
大きな西瓜ではなく
いつもこだま西瓜を買ってくる。
 
先日、道の駅のすみっこに置かれ
寂しそうに肩身が狭そうにしている
半額のこだま西瓜を買ってきた。
棚落ちしてるけど甘い。
今年最後の西瓜も種ごと食べた。

大阪城

事務所から15分も歩けば
大阪城が見えてくる。
見えてからがなかなか遠いけれど
行こうと思えば歩いて行ける。
 
「秀吉の城」が大阪城のイメージ。
でもその前に石山本願寺があった。
あの信長と戦った「石山合戦」だ。
 
その跡地に秀吉が15年をかけ築城。
規模は今の5倍以上だったらしい。
その大阪城もご存知のように
「大坂夏の陣」で落城し焼失。
  
そして徳川が秀吉の城の「上」に築城。
けれど落雷で天守閣の一部が焼失。
その後、明治維新の動乱で
大手門や多門櫓を残し天守閣は焼失。
明治維新後、この一帯は陸軍の管轄に。
  
今の天守閣は昭和6年に
初代大阪市長の関 一 氏が提案し
市民や豪商の募金で再建したもの。
でもまた建築物や天守閣の一部は
太平洋戦争の空襲で破損・焼失。

いまの大阪城天守閣は
戦後、公園とともに整備されたもの。
誰の城でもいいんです。
戦いに翻弄されながらも
多くの人の想いを抱きそこに立つ城。

天守閣にはエレベーターもある。
その時代毎に姿を変えて
今に至った城の歴史を考えると
それも自然に思えてくる。
 
大阪城周辺や上町台地には
古墳時代からの遺跡が眠っている。
飛鳥~奈良時代には難波宮があり
ここが日本の都だった。
 
今ここにいる私の下には
幾重にも重なった歴史がある。
詳しいことはわからなくても
1300年以上の歴史の重なりに
感謝の気持ちを込めて
思いを馳せることはできる。

なんだか大阪城の歴史が
つい最近の話のように思えてきた。

頑張る天邪鬼

コロナ禍で家にいる時間が増え
子供の頃に遊んだ場所や
自転車で探検した場所を
お散歩コースにして散策する。
  
不思議なほど町は子供の頃と変わらず
子供の頃は気に留めなかったことに
興味をもったり、色々感じたり。
見落としていたことにも気づき
新しい発見もあったりする。
  
自宅から2㎞程のところに
往時は堀を構えていた大きなお寺がある。
本堂の屋根からの雨水を受ける
天水受を支える天邪鬼が四隅にいる。
 
それぞれの真剣な表情が可笑しい。
頑張る様子が何だか愛らしい。
あちこちで仁王様や仏様に踏まれて
ぺちゃんこになってる天邪鬼とは違う
頑張って仕事をしている天邪鬼。
 
天邪鬼はきっと誰かに
「天水受に落ちた天からの法雨を
 こぼさず支えられるわけないね」
とでも言われたのだろう。
意地でもこぼさない!と必死で
バランスをとって支えている。
 
性格を利用してうまく使われちゃった。
なにしろ「あまのじゃく」ですから。 
 
「大変ね。頑張ってるね。」
頑張る天邪鬼をどこかで見かけたら
声をかけてみましょう。
「大丈夫だし…頑張ってないし」
とつぶやく声が聞こえるかも。
   
※天水受を支える天邪鬼はあちこちに。
 京都西本願寺や大阪一心寺にも。

カラーチップ

カラーチップ

それなに?と思う方
懐かしい…と思う方

?十年ほど前から…笑
印刷やデザインに関わってきた方は
このネタで話がどんどん広がり
一晩でも盛りあがれると思います。
  
簡単にざっくり言うと…
カラーチップは印刷の色見本。
   
色を正確に伝えることは
とても難しいこと。
特にシビアな色、例えば…
コーポレートカラーや商品のキーカラー
イメージカラーなどは正確に伝えて
共通認識を持つことが必要。
   
カラーチップは色を伝えるための道具。
 「赤はこれ」
 「ここはこの色ね」
と、小さな紙片を添付して
伝えたわけです。
  
カラーチップはもちろん現役で
デジタル版もあります。
でも私はこの紙のチップが好きで
時々ひっぱりだしてきます。
 
当時、印刷物をお願いする時は、
「このチップより少し沈んだ赤」
「これより深い黒でお願い」
と微妙なニュアンスを伝えながら
印刷屋さんと打合せしました。
今思えば、大切な楽しい時間でした。
 
効率と精度とスピードとひきかえに
消えていった大切なこともたくさん。

でも今の土台はそこに。
その時代を過ごしたことは
とっても大切な宝物。
  
※写真はDICのカラーチップ

浮世の月

谷町四丁目からちょっと北。
東側歩道にひっそり佇むのは
「此界隈井原西鶴終焉之地碑」
井原西鶴が人生を終えた場所です。

「浮世の月
 見過ごしにけり
 末二年」

井原西鶴の辞世の句。
この句には前書きがあります。

「人間五十年の研まり
 それさへ我には
 あまりたるに ましてや」

西鶴が生きた時代では
人生は50年と言われていました。
辞世の句は現代語にすると
こんな感じでしょうか。

「50年の人生は楽しかった。
 でもあまりにこの世は楽しく、
 二年余分にうっかりと
 生きてしまった。」

西鶴の人生最後の言葉は
戯作作家らしいシニカルな表現。
西鶴の一生も苦労が多々ありました。
でも「楽しかった」と。
 
当時と比べ、寿命は倍近くの現代。
心配事に時間を費やすのではなく
心配事を忘れるくらい楽しく
人生最後の時まで
うっかり過ごせたら
どんなに素敵でしょう。

「あぁ。楽しかった」と
旅立ちたいものです。

※井原西鶴(寛永19年~元禄6年)
 江戸時代の大坂の浮世草子
 人形浄瑠璃の作者であり俳諧師。
 別号は鶴永、二万翁、西鵬。

路地

高低差の大きい上町台地には
表通りの道から裏通りに繋がる
細い路地があちこちにある。
階段のついた路地や
通りに面した家の中を通るような
屋根のついた路地もある。
 
空堀界隈にも路地が多くあり
さながら迷路のように
「え?ここに出てくるんだ」
…な面白さもある。
でもそこは生活の場なので、
「おじゃまします」の気持ちで
そっと通らせて頂くことが大切。
 
この屋根のついた路地。
奥の長屋や借家への通路だったとか。
奥にある家への配慮で
遠回りせずに入れるように
表通りの家の1階の一部を
通路にして通れるようにしたとか。
他にも諸説ありますが、
奈良の「通り土間」や
京都の「通り庭」ともまた違った
独特の風情があります。
 
理由はどうあれ、その路地は
さながらタイムトンネル。
異次元への通路にも思えます。
 
いくつかの路地の向こうには
本当に昭和な空間があり
長屋が続く路地の奥には
大切に祀られたお地蔵さんや
お稲荷さんの古い社があったり
そっとしておきたい場所。
  
絶対に偶然には通らない場所に
素敵なカフェやバーも。
昔からの食堂やお好焼き屋さんや
雑貨や和装のお店があったりする。
 
もう何年もこの界隈を歩き回り
かなり土地勘はあるのだけれど
それでも行ったことあるのに
場所がわからない…こともある。

そういう場所はきっと
大切にそっとしておくべき場所。

水無月に水無月

日本に生まれてよかった…と
美しい景色に出会った時や
季節を感じた時、
そして長い歴史をもつ
季節の行事に触れた時
しみじみと思います。

季節の行事には
行事食というものがあります。
数多い行事食には
それぞれにちゃんと意味があります。
 
水無月には涼し気な
「水無月」という和菓子があります。
関西の方には馴染みがあり
毎年食べてる…という方も。
 
水無月は節分や土用の丑の日のように、
決まった日に食べる習慣があります。
 
水無月は三角の形をした和菓子で
ういろうに小豆をのせて固めたもの。
 
その由来は旧暦6月1日に氷を食べると、
夏に体調を崩すのを(夏バテですね)
予防する…という風習から。
 
6月1日の夏バテ?予防祈願は
室町時代の宮中で行われていた行事。
庶民には高級品の氷は手に入りません。
そこで、氷に似たお菓子を食べて
夏バテ予防をしたのが水無月の始まり。
 
三角形の形は氷の欠片や氷の角を表し、
小豆は邪気払いや悪魔祓いという意味が。
氷に手が届かなくても
季節を楽しもうとした庶民の知恵ですね。
 
6月30日に食べるのは
本格的な夏になる7月が来る前に
夏越の祓いで邪気を取り除き、
水無月を食べ暑い夏を乗り切る意味が。
 
でも、栄養価も高いし、
小豆は身体を温めてくれる。
氷よりいいよね?と思います。

そろそろ和菓子屋さんの店先に
水無月が並び始めました。
30日まで待たずフライングしてもOK。
この季節だけの楽しみ。
由来など思い浮かべながら
ゆっくり味わいたいものです。

釣鐘屋敷跡

事務所から熊野街道を北へ
八軒屋浜へ向かい1.5㎞程歩くと
「釣鐘町」がある。
西に少し入ると左側に
その名の由来となった釣鐘がある。
  
3代将軍家光は1634年(寛永11年)上洛の折
二条城から船で大坂城へ入った。
三郷惣年寄達はこの時、
将軍に酒樽・鰹節を献じ祝賀の意を表じ
三郷をあげて歓迎した。
  
惣年寄達は城中に召され
各々紋服三領を賜り、加えて
大坂町中が地子銀の永代赦免となった。

当時三郷では巨額の地子銀を納めており
永代赦免はとてつもなく大きな恩恵。
後世子孫までその恩を忘れないため、
釣鐘を作り町中に時を知らせる事に。
その年の秋に完成した釣鐘屋敷の鐘は
2時間おきの1日12回撞かれた。
  
釣鐘は江戸時代に
4度の火災をくぐり抜けた。
その後、1870年(明治3年)撤去され
博物館など幾度も場所を移動。
1926年(大正15年)以降は大阪府庁屋上に
「大坂町中時報鐘」として保存された。
1985年(昭和60年)地元有志の尽力で、
釣鐘屋敷のあった場所に戻ってきた。

釣鐘は390年近い時を経て
いまも1日に3回時を知らせながら
長く長く刻まれたこの地の歴史を
ずっと伝えている。

どこの城下町にもあるように
大坂城を中心とした町の名前には
その場所が担った役割や歴史を
色濃く伝えているものが多い。
  
※三郷=大坂三郷
 江戸時代の大坂城下の3つの町組
 (北組、南組、天満組)の総称。
 現代のキタ・ミナミはこの名残。
※地子銀=現在の固定資産税

一夜だけの花

南船場に事務所があった頃
近くの駐車場のおじさんに
サボテンをいただいた。
   
今年そのサボテンの横に
顔を出した赤ちゃんサボテンは
小さな鉢に引っ越しをして
スクスク元気に育ってる。
 
このサボテン。
年に一回、夏の夜に蔓が伸び
その先に一夜だけの花が咲く。

私は毎年一回、夏の朝
ベランダの扉を開けて
30㎝~50㎝伸びた蔓の先に
しおれた花を見つける。
  
おじさんが覚えていないくらい
駐車場の片隅に長く居たサボテン。
おじさんも一度も咲いた花を見ず
蔓の先のしおれた花を見てきた。

蔓の先に花が咲く意味を
おじさんは話してくれた。
 
 せいいっぱい蔓を伸ばし
 水の少ない砂漠でお互いに
 水をとりあわず生きていけるよう
 子孫を残していけるよう
 できるだけ遠くに花を咲かせる。
  
今の事務所の前を下った所に
植木に囲まれた駐車場があった。
おじさんは何年も前に亡くなり
そこにはマンションが建ち
たくさんの植木たちももういない。 
 
耳さえ傾ければ
自然は私たちに色々なことを
語りかけ、教えてくれる。

今年もサボテンは月夜に蔓を伸ばし
その先に花を咲かせる。
きっと、白くて美しい花。

薄恕一

難しい字ですね。
読みは薄 恕一(すすきじょいち)
 
薄 恕一のお話の前に…
相撲界でよく耳にする言葉「タニマチ」
意味・語源をご存じでしょうか。
  
「タニマチ」は
贔屓にしてくれる客や、後援者など
無償のスポンサーのこと。
  
最近では、スポーツや芸能界でも
使われているようです。
こちらはちょっと厄介な取り巻き等
マイナスなニュアンスで
使われることも多く残念ですが
本来「タニマチ」は
善意の無償のスポンサーでした。
  
1889年、谷町六丁目に
外科「薄病院」を開業した薄 恕一は
場所中、幕下力士のために
病院内に土俵を設けたり
幕下力士を無料で治療したり
小遣いを与え、面倒をみました。
 
それをきっかけに、谷町七丁目の医師が
力士の治療を無料でしたり
谷町界隈の呉服問屋たちも
なにかと力士を応援したことから
「タニマチ」と言われるようになったそうです。
今では少なくなりましたが、かつて春場所中、
この界隈に宿舎が多く構えられました。
 
薄 恕一は、力士だけではなく
幼少期から身体が弱く、貧しかった
直木賞のもととなった作家
直木三十五の面倒もみておられました。
 
医師薄 恕一は
 貧乏人は無料
 生活できる人は薬代一日四銭
 金持ちは二倍でも三倍でも払ってくれ
という方針を貫いた方。
 
西洋医学が育った上町台地で
「医は仁術」を貫かれたのですね。