残念石

大阪にはあちこちに「残念石」という
失礼な名を付けられた巨石があります。
 
大名の印がはっきり刻まれたもの
利用してモニュメントになっているもの
大坂城の石垣になるべく
はりきって運ばれてきたものの
何らかの理由で使われず
置かれたままになった巨石たち。
 
残念石には豊臣時代の大坂城のものと
夏の陣の後に
徳川が大坂城の上に盛り土をして
秀吉の痕跡を消し、
大坂城を再建した時のものがあります。
 
どちらにしても、残念だった巨石たち。
 
大阪城公園内のあちこち。
戎橋の道頓堀開削の功労を称える石碑
大阪国際がんセンターの刻印石の庭
 
また「残念石」は大阪市内だけではなく
大山崎や芦屋、堺、木津川など
あちこちで置かれたままに。

写真は小豆島で出会った残念石たち
小豆島には切り出し途中のものや
切り出されて海のそばまできたのに
海を渡ってこれなかった石たちが
たくさん海を見つめています。
 
大坂城の石垣の石を
どこでどうやって切り出したか
切り出した石をどうやって海まで運んだか
その石をどうやって船に積み
どうやって大阪まで運んできたのか
小豆島では色々なことが学べます。
 
この巨石を動かすには
現代の重機を使っても
動かすには大変な労力が必要。

大坂城の石垣
ここまでやってきた巨石たち
ちょっとフォーカスしてみませんか?

727

新幹線や在来線、そして車。
窓からぼんやり景色を眺めていると
ちょっと都市部を離れた山の斜面に
「727」の看板。
見たことないですか?
 
子供の頃から何の看板?と思いつつ
電車や車から山の斜面に
この看板を見つけた時は
意味なくテンションがあがりました。
  
「727」だけの看板もあるけれど
「727cosmetics」の看板もあり
化粧品会社の広告と知ってからは
詳しく知りたいとは思わないものの
見つけるとやはり嬉しい看板だった。
 
最近のこと。
車でいつも奈良へ向かう
奈良街道の工事渋滞を避けて
旧街道から170号線に抜け
大好きな裏道を走っていた。
  
大和川にかかる橋を渡る手前
JRと近鉄大阪線が並走するあたり
信号待ちでふと見ると
道路沿いのビルの屋上に
「727cosmetics」の大きな看板

なんと727cosmetics本社工場。
しょっちゅう近くを通りながら
まったく気が付かなかった。
…世の中そういうこと多いと思う。
  
ちょっと調べてみると
なるほど商品を見たことないはずだ。
「727」は昭和20年から続く
美容室専売の化粧品会社。
 
子供の頃から見慣れた「727」
変わることない安定の看板。
またどこかの山に看板を見つけると
きっと違った意味でテンションがあがる。
  
新幹線や車の窓から
見たことないですか?
「727」

三橋楼

7000年程前、
縄文海進の時代には
半島だった上町台地。 
秀吉の大坂城などは
もうかなり最近な感じ。
  
そんなことを考えて歩いていると
2~3キロはあっという間。
   
事務所から熊野街道を北へ
八軒家浜へ向かう道にも
古代から近代まで
歴史を感じる場所があちこちに。 
 
暗越奈良街道と
熊野街道が重なる御祓筋から
北大江公園を東に入ると
大きなマンションの片隅に
小さなお堂と説明パネルがある。
   
ここは「三橋楼」があった場所
難波・天神・天満の三橋を北に望む
この高台にあった料亭で 
「大阪会議」の前に
大久保利通と木戸孝允が
個別会談をした場所。
  
きちんと説明すると長くなるので
簡単に書いてしまうと…
 
明治維新の後、意見の対立等で
離れてしまった有用な人材を
政権に復帰させようと
明治政府が開いた「大阪会議」  
この会議のあと
木戸孝允、板垣退助が復帰し
明治政府の新体制が整っていきます。
 
「三橋楼」は明治政府新体制の
個別会談が行われた
歴史上とっても重要な場所。
往時の面影はないけれど
なんとなく情景が浮かんでくる。
  
御祓筋に戻り、坂を降りていくと
大川の水面が見えてきます。
もうそこは八軒家浜。

エレベーターの四字熟語

熊野街道沿いのレンガ色のビル
ここの7階に事務所がある。
 
7階の事務所まで
秋・冬・春は上りも下りも
階段を使うことが多いけれど
さすがに暑い時はイヤだ。
上りも下りもエレベーターを使う。
 
エレベーターで乗り合わせる方は
ほぼこのビルの方ばかり。
顔見知りの方もいるし
もちろん知らない人もいる。
でも乗り合わせたらご挨拶する。
 
ほんの短い垂直移動の時間だけれど
コロナ禍以降ということでもなく
なんとなく、みんなの視線は
通過中フロアを表示するパネルへ。

このパネルに色々なアナウンスや
きれいな景色の写真が出たり
「難読漢字」「四字熟語」のクイズも。
私はこのクイズが好きで楽しみにしている。
 
6月末のこと。
エレベーターに乗りパネルを見ていた。
大好きな「四字熟語」が表示された。
問題は…

「無〇〇中」

「無我夢中」

…と頭の中で答えた瞬間
後ろのおじさんがボソッと答えた。

「無理心中」
 
合ってる。
うん。間違いじゃない。
むしろいいと思う。
でも出題者はソコを期待していないと思う。
聞こえていないことにして
いつものように会釈して7階で降りた。
 
あのおじさんと
次回乗り合わせた時の問題は
「〇肉〇食」がいいな。
 
「弱肉強食」ではなくて
きっと「焼肉定食!」
そう回答してくれそうな気がする。

まだ夏はこれから
しばらくはエレベーターに乗ろう。

パキラ

事務所のドアをあけたら
天井まで伸びたパキラがいる。
朝は必ず「おはよう」と声をかける。
  
もとパキラ…と言った方がいいくらいに
一枚一枚の葉っぱがでっかい。
スクスク育って天井まで伸びて
今度は横向きに枝を広げている。
  
15年以上前の話。
ホームセンターのレジで並んでいる時
レジ横に枯れかけた鉢が置いてあった。
このパキラはその中のひと鉢だった。
 
3本のパキラが三つ編みになった
プレゼントしたら喜ばれる
よくあるおしゃれな鉢植。
3本のうち2本が枯れていた。
でも残り1本は元気に葉をつけていた。
「この鉢はどうするんですか?」と聞くと
「枯れたから廃棄です」と店員さん。
 
まだ元気な木があるのに…と思っていると
「よかったらもっていってください」
以心伝心とはこのこと。
パキラと私の目があった。
お礼を言っていただいて帰った。
   
事務所に連れて帰った40㎝程のパキラ。
2本は枯れていったけど
1本は超元気でスクスク育っていった。
  
数年後今の事務所に移転する時
倍以上に大きくなったパキラは
鉢の土を落とさないよう
ビニールでグルグル巻きになって
一緒に引っ越してきた。
 
前の事務所よりも陽当たりが良いせいか
遠慮なくガンガン伸びて
今では天井に届いて窮屈そう。
頑丈な太い木になってる。
 
木と人もご縁でつながっている。
  
事務所に来て下さった方によく聞かれる。
「これってなんの木?」
「もとパキラです」

八軒家浜

平安時代、上町台地の北の端に
渡辺津という港がありました。
 
古代の難波津が発展し
大江、国府津、窪津、楼津とも呼ばれ
摂津国の政治の中心地となり
戦国時代はもちろん各時代で
この港と川は重要な役割を担い
海陸交通の要として栄えました。
 
江戸時代、船宿などがこの地に
八軒並んでいたことから
「八軒家浜」と呼ばれ
京と大坂を結ぶ「三十石船」の
ターミナルとして淀川舟運の要衝に。

そしてここ八軒家浜は熊野三山への参詣道
「熊野街道」の起点。
   
八軒家浜は多く文芸・美術作品に描かれ
「東海道中膝栗毛」
「浪花百景 八軒屋夕景」
などは、ご存知かと思います。
 
八軒家船着場跡の石碑から西へ歩くと
船宿「京屋忠兵衛跡」があります。
京屋は新選組の定宿。
尊皇志士や新選組は、
ここ八軒家浜から船に乗り
幕末の京・大坂を駆け抜けました。
坂本龍馬とお龍のご縁もここから。
 
お龍は大坂丼池の遊郭に
騙されて売られた妹を取り返すため
京屋に泊まり、懐に短刀をしのばせ、
ひとり遊郭に乗り込んで
妹を助け出したと言われています。
いやぁ。かっこいい…
 
龍馬は京伏見の寺田屋を定宿とし
大坂では京屋の東隣「堺屋源兵衛」を
宿としていたそうです。
 
現在の八軒家浜は川を埋め立て
往時よりも北にありますが
川は変わらずに流れ続けています。
そして歴史も変わらずそこに。
 
八軒家浜に立ち、水面を眺めると
往時の様子が浮かんできます。

背割下水

何これ?…な見にくい写真。
水が流れているのがわかりますか?
これは『背割下水』
通称『太閤下水』です。

豊臣秀吉が大坂城築城の時に着手した
今も現役の石積みの下水溝です。

大坂は淀川と大和川のデルタ地域で
低湿な土地だったので
道路整備と町屋から出る下水を
排水するための下水が整備されました。
 
大坂城の城下町は
大坂城への東西道を軸として
碁盤の目に区切られていました。
その道路に面した建物の
背中合わせ(裏側)に下水溝が掘られ
『背割下水』『太閤下水』と呼ばれました。
 
当時の大坂はこの太閤下水に挟まれた
約40間(72m)四方の区画を
町割りの基本としていました。
 
太閤下水は今も現役で水が流れています。 
現在7kmが大阪市文化財に指定され
事務所の近く、南大江小学校の西側に
地上に設置したのぞき窓から
現役の太閤下水を見ることができます。
この写真はそののぞき窓から撮ったもの。
 
『太閤下水』は申込すれば
地下に入り見学することもできます。

江戸時代以前に作られ、
江戸、明治、昭和と修復しながら
繋がってきた大坂の歴史。
 
いまもなお、太閤下水には
途切れることなく水が流れ続けています。

北向きの窓

小さな事務所のドアは東向き。
部屋に入ると
南面は白い壁。
北面は一面大きな窓。

外階段の踊り場にこっそりある
隠れ家のような部屋の場所と
この窓が気にいって
南船場から引っ越して10年ほど。

この北側の大きな窓。
お天気のいい日に
ちょっと頑張って目を凝らすと
六甲山系がちらっと見えたりする。

でも北風が強く吹く日は
『ドーン!』と北風が窓ガラスに
正面から体当たりしてくる。
 
風の強い時に窓を開けると
ブラインドがえらいことになる。
 直角に立ち上がる
 ねじれる
 天井まで跳ね上がる
まぁ壊れることはないけど
音がすごくて…仕事どころじゃない。

寒い日はもちろん窓をあけられない。
それどころかコンクリートだから
一旦冷えたら冷蔵庫状態。
台風の時には
雨が窓に向かって直角に降る。
 
でも一年中部屋は明るい。
夏でも西陽で強烈に暑くなることなく
窓を開ければそこそこ快適。
居心地いいのか植物も良く育つ。

ビルの玄関を出れば熊野街道
左の坂の向こうには生駒連峰
右に下れば松屋町から南船場へ
東横堀川を渡り続いている。
そしてデッカい北向きの窓がある。
 
ここもまた
大好きな場所のひとつ。

糊こぼしの御守り

東大寺二月堂に『糊こぼし』という
可愛い御守りがある。
 
この御守りは修二会本行中に練行衆が作り
ご本尊十一面観音様の仏前にお供えする
造花の椿を模った『糊こぼし』の御守り。
 
本行中の練行衆が造花の椿を作る際
糊がこぼれて白い斑点模様となり
『良弁椿(開山堂の庭椿)』を思わせるのが
『糊こぼし』の名前の由来。
 
数年前から車の鍵に付けていた。
いつも聞こえる小さな鈴の音が聞こえず
ふと見ると鈴がなくなっていた。
車の中や家を探してもなかった。
  
『御守りを落としたときは 
 身代わりになってくれたと思いなさい』
子供の頃、祖父に教えてもらった。
でも椿が寂しそうだった。
 
数日後のいいお天気の朝
仕事に行こうと家を出ると
満開を過ぎた桜が風で散り
自宅前の道がピンク色になっていた。
 
きれいだけれど溝が詰まってしまう。
鞄と車の鍵を一旦玄関に置き
箒と塵取りを持ち花びらを集めはじめた。

桜の花びらを集め、さらさらと
ちりとりからビニール袋に入れていると
ちりとりの隅に丸いものが光った。
御守りの鈴だった。
 
おかえりなさい。

枝を離れた桜の花びらが
大切に守って渡してくれた。

ありがとう。

お隣の桜の老木をしばらく見上げて
いつも通り仕事に向かった。

越中井

散策や散歩にいい季節です。
事務所界隈は歴史が幾層にも重なる場所。
ついつい歩きたくなります。

事務所から歩いて15分ほど。
大坂城の南側に『越中井』があります。

この辺りは豊臣大坂城時代の大坂城三の丸
戦国武将の屋敷が立ち並ぶ場所でした。
『越中井』は細川越中守忠興屋敷跡に。
 
細川ガラシャという洗礼名で
珠子をご存知の方も多いと思います。
越中井は明智光秀の三女、細川忠興の正妻、
細川珠子が世を去った場所。
 
本能寺の変以降、光秀の娘である珠子は
離縁の後、秀吉のはからいで復縁するも
孤独で辛い月日を送ります。
珠子がこの屋敷に移り住んだのは
秀吉のはからいで幽閉先から戻された後。
外出も許されず極限の精神状態の中
キリスト教と出会いクリスチャンとなります。
  
秀吉の死後、石田三成がガラシャを人質に
忠興を味方につけようとしますが
人質となることを拒み、子ども達を逃がし
クリスチャンであるガラシャ自身は
自害は許されない為、家老小笠原少斎に命じ
屋敷を燃やし最期を遂げました。
 
『ガラシャ』とは『神の恩寵』という意味
 
どのような状況でも自身の生き方を貫き
静かに戦い散っていったガラシャ。
その死は神のもとへ旅だつという
幸せな死であったのかもしれません。
 
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散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 
 花も花なれ 人も人なれ
  ~細川ガラシャ 辞世の句~
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