浮世の月

谷町四丁目からちょっと北。
東側歩道にひっそり佇むのは
「此界隈井原西鶴終焉之地碑」
井原西鶴が人生を終えた場所です。

「浮世の月
 見過ごしにけり
 末二年」

井原西鶴の辞世の句。
この句には前書きがあります。

「人間五十年の研まり
 それさへ我には
 あまりたるに ましてや」

西鶴が生きた時代では
人生は50年と言われていました。
辞世の句は現代語にすると
こんな感じでしょうか。

「50年の人生は楽しかった。
 でもあまりにこの世は楽しく、
 二年余分にうっかりと
 生きてしまった。」

西鶴の人生最後の言葉は
戯作作家らしいシニカルな表現。
西鶴の一生も苦労が多々ありました。
でも「楽しかった」と。
 
当時と比べ、寿命は倍近くの現代。
心配事に時間を費やすのではなく
心配事を忘れるくらい楽しく
人生最後の時まで
うっかり過ごせたら
どんなに素敵でしょう。

「あぁ。楽しかった」と
旅立ちたいものです。

※井原西鶴(寛永19年~元禄6年)
 江戸時代の大坂の浮世草子
 人形浄瑠璃の作者であり俳諧師。
 別号は鶴永、二万翁、西鵬。

路地

高低差の大きい上町台地には
表通りの道から裏通りに繋がる
細い路地があちこちにある。
階段のついた路地や
通りに面した家の中を通るような
屋根のついた路地もある。
 
空堀界隈にも路地が多くあり
さながら迷路のように
「え?ここに出てくるんだ」
…な面白さもある。
でもそこは生活の場なので、
「おじゃまします」の気持ちで
そっと通らせて頂くことが大切。
 
この屋根のついた路地。
奥の長屋や借家への通路だったとか。
奥にある家への配慮で
遠回りせずに入れるように
表通りの家の1階の一部を
通路にして通れるようにしたとか。
他にも諸説ありますが、
奈良の「通り土間」や
京都の「通り庭」ともまた違った
独特の風情があります。
 
理由はどうあれ、その路地は
さながらタイムトンネル。
異次元への通路にも思えます。
 
いくつかの路地の向こうには
本当に昭和な空間があり
長屋が続く路地の奥には
大切に祀られたお地蔵さんや
お稲荷さんの古い社があったり
そっとしておきたい場所。
  
絶対に偶然には通らない場所に
素敵なカフェやバーも。
昔からの食堂やお好焼き屋さんや
雑貨や和装のお店があったりする。
 
もう何年もこの界隈を歩き回り
かなり土地勘はあるのだけれど
それでも行ったことあるのに
場所がわからない…こともある。

そういう場所はきっと
大切にそっとしておくべき場所。

水無月に水無月

日本に生まれてよかった…と
美しい景色に出会った時や
季節を感じた時、
そして長い歴史をもつ
季節の行事に触れた時
しみじみと思います。

季節の行事には
行事食というものがあります。
数多い行事食には
それぞれにちゃんと意味があります。
 
水無月には涼し気な
「水無月」という和菓子があります。
関西の方には馴染みがあり
毎年食べてる…という方も。
 
水無月は節分や土用の丑の日のように、
決まった日に食べる習慣があります。
 
水無月は三角の形をした和菓子で
ういろうに小豆をのせて固めたもの。
 
その由来は旧暦6月1日に氷を食べると、
夏に体調を崩すのを(夏バテですね)
予防する…という風習から。
 
6月1日の夏バテ?予防祈願は
室町時代の宮中で行われていた行事。
庶民には高級品の氷は手に入りません。
そこで、氷に似たお菓子を食べて
夏バテ予防をしたのが水無月の始まり。
 
三角形の形は氷の欠片や氷の角を表し、
小豆は邪気払いや悪魔祓いという意味が。
氷に手が届かなくても
季節を楽しもうとした庶民の知恵ですね。
 
6月30日に食べるのは
本格的な夏になる7月が来る前に
夏越の祓いで邪気を取り除き、
水無月を食べ暑い夏を乗り切る意味が。
 
でも、栄養価も高いし、
小豆は身体を温めてくれる。
氷よりいいよね?と思います。

そろそろ和菓子屋さんの店先に
水無月が並び始めました。
30日まで待たずフライングしてもOK。
この季節だけの楽しみ。
由来など思い浮かべながら
ゆっくり味わいたいものです。

釣鐘屋敷跡

事務所から熊野街道を北へ
八軒屋浜へ向かい1.5㎞程歩くと
「釣鐘町」がある。
西に少し入ると左側に
その名の由来となった釣鐘がある。
  
3代将軍家光は1634年(寛永11年)上洛の折
二条城から船で大坂城へ入った。
三郷惣年寄達はこの時、
将軍に酒樽・鰹節を献じ祝賀の意を表じ
三郷をあげて歓迎した。
  
惣年寄達は城中に召され
各々紋服三領を賜り、加えて
大坂町中が地子銀の永代赦免となった。

当時三郷では巨額の地子銀を納めており
永代赦免はとてつもなく大きな恩恵。
後世子孫までその恩を忘れないため、
釣鐘を作り町中に時を知らせる事に。
その年の秋に完成した釣鐘屋敷の鐘は
2時間おきの1日12回撞かれた。
  
釣鐘は江戸時代に
4度の火災をくぐり抜けた。
その後、1870年(明治3年)撤去され
博物館など幾度も場所を移動。
1926年(大正15年)以降は大阪府庁屋上に
「大坂町中時報鐘」として保存された。
1985年(昭和60年)地元有志の尽力で、
釣鐘屋敷のあった場所に戻ってきた。

釣鐘は390年近い時を経て
いまも1日に3回時を知らせながら
長く長く刻まれたこの地の歴史を
ずっと伝えている。

どこの城下町にもあるように
大坂城を中心とした町の名前には
その場所が担った役割や歴史を
色濃く伝えているものが多い。
  
※三郷=大坂三郷
 江戸時代の大坂城下の3つの町組
 (北組、南組、天満組)の総称。
 現代のキタ・ミナミはこの名残。
※地子銀=現在の固定資産税

一夜だけの花

南船場に事務所があった頃
近くの駐車場のおじさんに
サボテンをいただいた。
   
今年そのサボテンの横に
顔を出した赤ちゃんサボテンは
小さな鉢に引っ越しをして
スクスク元気に育ってる。
 
このサボテン。
年に一回、夏の夜に蔓が伸び
その先に一夜だけの花が咲く。

私は毎年一回、夏の朝
ベランダの扉を開けて
30㎝~50㎝伸びた蔓の先に
しおれた花を見つける。
  
おじさんが覚えていないくらい
駐車場の片隅に長く居たサボテン。
おじさんも一度も咲いた花を見ず
蔓の先のしおれた花を見てきた。

蔓の先に花が咲く意味を
おじさんは話してくれた。
 
 せいいっぱい蔓を伸ばし
 水の少ない砂漠でお互いに
 水をとりあわず生きていけるよう
 子孫を残していけるよう
 できるだけ遠くに花を咲かせる。
  
今の事務所の前を下った所に
植木に囲まれた駐車場があった。
おじさんは何年も前に亡くなり
そこにはマンションが建ち
たくさんの植木たちももういない。 
 
耳さえ傾ければ
自然は私たちに色々なことを
語りかけ、教えてくれる。

今年もサボテンは月夜に蔓を伸ばし
その先に花を咲かせる。
きっと、白くて美しい花。

薄恕一

難しい字ですね。
読みは薄 恕一(すすきじょいち)
 
薄 恕一のお話の前に…
相撲界でよく耳にする言葉「タニマチ」
意味・語源をご存じでしょうか。
  
「タニマチ」は
贔屓にしてくれる客や、後援者など
無償のスポンサーのこと。
  
最近では、スポーツや芸能界でも
使われているようです。
こちらはちょっと厄介な取り巻き等
マイナスなニュアンスで
使われることも多く残念ですが
本来「タニマチ」は
善意の無償のスポンサーでした。
  
1889年、谷町六丁目に
外科「薄病院」を開業した薄 恕一は
場所中、幕下力士のために
病院内に土俵を設けたり
幕下力士を無料で治療したり
小遣いを与え、面倒をみました。
 
それをきっかけに、谷町七丁目の医師が
力士の治療を無料でしたり
谷町界隈の呉服問屋たちも
なにかと力士を応援したことから
「タニマチ」と言われるようになったそうです。
今では少なくなりましたが、かつて春場所中、
この界隈に宿舎が多く構えられました。
 
薄 恕一は、力士だけではなく
幼少期から身体が弱く、貧しかった
直木賞のもととなった作家
直木三十五の面倒もみておられました。
 
医師薄 恕一は
 貧乏人は無料
 生活できる人は薬代一日四銭
 金持ちは二倍でも三倍でも払ってくれ
という方針を貫いた方。
 
西洋医学が育った上町台地で
「医は仁術」を貫かれたのですね。

桜は身近な花。
次々に咲く花は華やかだけれど
それでいて少し物悲しくもある。

どこにでもあるのに
開花を知らせるニュースまで。
ちょっと特別な花です。

桜の思い出は誰にも
ひとつやふたつあると思います。
毎年この季節に思い出す場面や
桜にまつわるエピソードを
お持ちではないですか?
 
こどもの頃
桜が満開になると、
役目を終えた花びらが
自宅近くの川を流れてきて
川面を桜色に染めました。
 
その桜がどこから流れて来るのか
どうしても知りたくて
友達と2人、満開の桜が続く川沿いを
自転車で遡ったことがあります。
 
どこまで走っても桜が満開で
その美しさは今も鮮明に覚えています。
このお話のオチは
両親からの大目玉ですが。
 
そのころ、自宅前の通りには
各家に一本ずつ桜の木があり
春になると桜の回廊になり、
ご近所集まってお花見も。
でもリノベーションや取り壊しで
今では通りの桜は2本だけ。 

この2本の桜、川沿いの桜、
近くの公園の桜も
いまでは大切な幼馴染です。
 
この季節。桜が咲くと
桜の木に声をかけます。
今年もまた会えて嬉しい…と。

鍵曲

上町台地、とくに空堀界隈には
複雑に曲がった道や
曲り角が多くあります。
 
これはよく武家町にみられる
複雑に折れ曲がる道。
『鍵曲(かいまがり)』の名残り。
   
攻め込もうとする敵は
曲がり角では見通しも利かず
速度を落とさなくていけません。
 
護る側は大きな高低差を利用し
見通しが利き見張りやすく
上から迎え撃てるという
城を中心とした
強固な護りの工夫がありました。
  
空堀商店街を南北に横切る道は
今も『鍵曲』そのままの道が。
で…
 南→北へ歩くと攻め込む気分
 北→南へ歩くと迎え撃つ気分
…にはなりませんが、
独特の緊張感があります。
    
歴史が重なる上町台地。
散策が気持ちいい季節です。
お寺や神社の桜も
そろそろ咲き始める頃。
スマホの古地図を見ながら
好きな時代へ。

春火鉢

春頃に使われる俳句の季語。  
 冬の間ずっと使っていた火鉢が
 春になってまだ置かれている。

この時期は朝夕に残る寒さに
まだまだ暖をとりたい日も。
火をいれなくても、
そこに置いてあるだけで
なんとなく安心感があります。
 
昨年の夏、自宅の押入れで
祖母の火鉢を見つけ
冬になったら使おうと
灰・炭・火鉢箸・火熾鍋…
半年がかりで準備をし
秋から使い始めました。
   
寒い!暖まりたい!と思っても
エアコンやストーブと違い
スイッチはどこにもなく
寒い中、約20分かけて火を熾す。
  
黑く輝く美しい備長炭が
徐々に赤くなり呼吸を始めると
まず気持ちが暖かくなります。
 
熾った炭を火鉢に入れても
置き方がお気に召さないと
炭は仕事をしてくれません。
火鉢に手をかざし
炭火のご機嫌をうかがっていると
少しずつ身体が暖まります。
 
昔、人間は「火」と出会い
火を操るようになり
豊かな暮らしを手に入れました。
物理的なことだけではなく
「火」という生き物の
素晴らしさや怖さを知り
暖かさに安心や喜びを感じ
きっと気持ちの豊かさも。
 
ストーブやエアコン、
ホットカーペットに床暖房
それは本当に便利で快適。
 
でも炭を熾して
火と対話しながら暖をとる。
それは優しくて暖かく
ちょっと違う素敵な時間です。 
    
 春風が
 嬉し寂しい
 春火鉢

桐の木

上町台地から松屋町筋を越え
船場界隈を歩いていると
あちこちに桐の木があります。
 
お寺や町屋の塀の向こう
小さな公園やちょっとした緑地帯
東横堀川沿いの小径や
ビルの裏の狭いスペースにも。

桐の花言葉は「高尚」
中国神話の霊鳥である鳳凰は
桐の木だけに止まるそうです。
花が紫ということもあり、日本でも
神聖な木として大切にされてきました。
 
で?あちこちの桐がどうした?です。
 
桐は15年程で成木になります。
大阪の商家では女の子が生まれると、
庭に桐の苗木を植えて育てて
成人した時にその木で箪笥を作り
嫁入り道具にして嫁がせる。
…という風習があったそうです。

女の子が生まれた時に
桐の木を植える風習は
武家や農家にもあったようですが
この界隈に残る桐の大木の多くは
かつて商家の屋敷があった名残。

普段は気づかないかもしれません。
でも4月頃から紫の花を咲かせます。
そして葉はご存知の「桐紋」の桐。
  
ビルの間の桐の大木を見ると
大きなお屋敷があった頃の話を
語ってくれないかな…と
桐の木に話かけてみたくなります。