事務所の植物たち

今年の夏は本当に暑く長かった
事務所も昼間はエアコンで
仕事に最適な温度を保っているけれど
誰もいない夜や、週末など
閉め切ったコンクリートの事務所は
観葉植物たちにとって過酷だったと思う。

何度かDiaryで紹介した
船場の事務所から連れてきた植物たち。
カポックやポトスにハイビスカス
名前がわからない観葉植物たち
みんな一緒に四季を過ごしてきた。
  
10年くらい前に植木鉢が割れたので
根っこを洗って水に挿した水栽培も。
居心地が良いのかそれからずっと
狭いエアコンの上で上手に枝を張り
伸び伸び元気に成長してくれている。

この夏の暑さに耐えてくれた植物達。
ハイビスカスだけはお盆を過ぎて
葉を落とし幹と枝だけになってしまった。
 
このハイビスカスは
船場の月極駐車場の女将さんが
切り花にくださった一輪だった。
花瓶の中で根が出てきたので
土に植えるとスクスク育ってくれた。
 
事務所は冬も植物には厳しい環境。
暖房で昼間は暖かい。
でも北向きの大きな窓からの冷気で
夜はかなり冷えて寒暖差が大きい。
南の国の木には厳しい環境だったのに
花は咲かないけれど
ずっと事務所に居てくれた。
 
枯れたハイビスカスの鉢にも
他の植物たちと同じように
土が乾いたら水をあげている。
「春にまた会えるといいな」
と話しかけながら。

騎兵第四聯隊

真田山。
ご存知の方も多いかと思います。
大坂城の南側に築かれた山城
そう真田丸のあった場所。
  
真田山には多くの重なった歴史があり
三光神社をはじめ鎌八幡など
神社仏閣もたくさんあり
少し歩くと石碑や顕彰碑があちこちに。
 
真田丸跡(真田丸顕彰碑)から
少し南に騎兵第四聯隊忠魂碑があります。
明治時代、ここ真田山には
大坂第四師団所属騎兵第四聯隊が。
  
騎兵第四聯隊は明治22年に創立。
日清戦争、日露戦争に出動。
その後、隊は昭和7年に堺に移転し
騎兵第四聯隊跡地は大阪市が
昭和14年に真田山公園として整備。
いま真田山のあちこちにある
小さな公園はその名残です。
   
いまは学校も多く穏やかな真田山。
ここで騎馬隊が訓練していたとは
想像もできないけれど
戦国時代には大坂城を守る為
ここは戦いの舞台になり
明治以降の戦争では戦いに向かう為
騎兵第四聯隊がありました。
  
現在の大坂城公園あたりには
陸軍本部をはじめ砲兵工廠など
数々の陸軍施設があり
その南に騎兵第四聯隊がありました。
そんなことを考えていると
どこか真田丸と重なってしまいます。
   
そして真田丸顕彰碑の少し東に
数多くの英霊が眠っておられる
旧真田山陸軍墓地があります。
こちらはまた別の機会に。

いろは湯

事務所を出て、谷町筋を渡り
熊野街道から少し入ったところに
大好きな銭湯「いろは湯」が
昨年末まであった。
 
10年ほど前は
徹夜になる…と思った日は
気分転換にこの銭湯に行った。
その帰りに谷町界隈で食事して
また仕事をしたものだ。
 
夏の暑い日に自転車で
あちこち走り回った夕方に
ひと風呂浴びたこともあった。
 
暖簾をくぐると玄関はタイル張り
下駄箱には木の蓋があり
ガラス戸を開けると番台が。
男湯と女湯の真ん中に
どちらの脱衣場に向くこともなく
おばさんかおじさんが座っていた。

脱衣場にはデッカい扇風機。
ロッカーではなく、扉のある木の棚。
ゴムのついた鍵が付いていた。
浴場の正面の壁には壮大な富士山。
湯船はタイルで装飾されていた。
洗面器は黄色のケロリン。

湯船のお湯は暑くてなかなか入れず
ぼちぼち慣らしてから入った。
洗い場では曇った鏡を見ながら
水が出る蛇口と湯の出る蛇口を
両方同時に押して湯温を調整した。
 
風呂上がりには小さな冷蔵庫から
フルーツ牛乳やコーヒー牛乳を出して
番台に持って行きお金を払う。
「いろは湯」は正しい日本の銭湯だった。
   
コロナ禍でテレワークが増え
仕事場から銭湯へ行くこともなく
銭湯の前を通ることもなかった。
 
やっと元の生活が戻ってきた1月
ひさしぶりに前を通ると
「2022年12月末で閉店しました」
と小さな張り紙があった。
 
コロナ禍がきっかけだとは思うけれど
このあたりにたくさんあった
お風呂のない長屋や古い町家も
どんどん減っていったし
銭湯の需要も減ったのだろう。
仕事中に銭湯に行く妙なヤツも
居なくなっただろうし。

家のお風呂もスーパー銭湯も快適。
でも地域の人に愛されてきた
「日本の銭湯」には違う魅力があった。
 
もう一度入りたかったな。
半年早く前を通ればよかったな。

あれこれ考えていると
開店前いつもそうしてあったように
シャッターの向こう側に
暖簾が裏向きでかけてある気がした。

残念石

大阪にはあちこちに「残念石」という
失礼な名を付けられた巨石があります。
 
大名の印がはっきり刻まれたもの
利用してモニュメントになっているもの
大坂城の石垣になるべく
はりきって運ばれてきたものの
何らかの理由で使われず
置かれたままになった巨石たち。
 
残念石には豊臣時代の大坂城のものと
夏の陣の後に
徳川が大坂城の上に盛り土をして
秀吉の痕跡を消し、
大坂城を再建した時のものがあります。
 
どちらにしても、残念だった巨石たち。
 
大阪城公園内のあちこち。
戎橋の道頓堀開削の功労を称える石碑
大阪国際がんセンターの刻印石の庭
 
また「残念石」は大阪市内だけではなく
大山崎や芦屋、堺、木津川など
あちこちで置かれたままに。

写真は小豆島で出会った残念石たち
小豆島には切り出し途中のものや
切り出されて海のそばまできたのに
海を渡ってこれなかった石たちが
たくさん海を見つめています。
 
大坂城の石垣の石を
どこでどうやって切り出したか
切り出した石をどうやって海まで運んだか
その石をどうやって船に積み
どうやって大阪まで運んできたのか
小豆島では色々なことが学べます。
 
この巨石を動かすには
現代の重機を使っても
動かすには大変な労力が必要。

大坂城の石垣
ここまでやってきた巨石たち
ちょっとフォーカスしてみませんか?

727

新幹線や在来線、そして車。
窓からぼんやり景色を眺めていると
ちょっと都市部を離れた山の斜面に
「727」の看板。
見たことないですか?
 
子供の頃から何の看板?と思いつつ
電車や車から山の斜面に
この看板を見つけた時は
意味なくテンションがあがりました。
  
「727」だけの看板もあるけれど
「727cosmetics」の看板もあり
化粧品会社の広告と知ってからは
詳しく知りたいとは思わないものの
見つけるとやはり嬉しい看板だった。
 
最近のこと。
車でいつも奈良へ向かう
奈良街道の工事渋滞を避けて
旧街道から170号線に抜け
大好きな裏道を走っていた。
  
大和川にかかる橋を渡る手前
JRと近鉄大阪線が並走するあたり
信号待ちでふと見ると
道路沿いのビルの屋上に
「727cosmetics」の大きな看板

なんと727cosmetics本社工場。
しょっちゅう近くを通りながら
まったく気が付かなかった。
…世の中そういうこと多いと思う。
  
ちょっと調べてみると
なるほど商品を見たことないはずだ。
「727」は昭和20年から続く
美容室専売の化粧品会社。
 
子供の頃から見慣れた「727」
変わることない安定の看板。
またどこかの山に看板を見つけると
きっと違った意味でテンションがあがる。
  
新幹線や車の窓から
見たことないですか?
「727」

三橋楼

7000年程前、
縄文海進の時代には
半島だった上町台地。 
秀吉の大坂城などは
もうかなり最近な感じ。
  
そんなことを考えて歩いていると
2~3キロはあっという間。
   
事務所から熊野街道を北へ
八軒家浜へ向かう道にも
古代から近代まで
歴史を感じる場所があちこちに。 
 
暗越奈良街道と
熊野街道が重なる御祓筋から
北大江公園を東に入ると
大きなマンションの片隅に
小さなお堂と説明パネルがある。
   
ここは「三橋楼」があった場所
難波・天神・天満の三橋を北に望む
この高台にあった料亭で 
「大阪会議」の前に
大久保利通と木戸孝允が
個別会談をした場所。
  
きちんと説明すると長くなるので
簡単に書いてしまうと…
 
明治維新の後、意見の対立等で
離れてしまった有用な人材を
政権に復帰させようと
明治政府が開いた「大阪会議」  
この会議のあと
木戸孝允、板垣退助が復帰し
明治政府の新体制が整っていきます。
 
「三橋楼」は明治政府新体制の
個別会談が行われた
歴史上とっても重要な場所。
往時の面影はないけれど
なんとなく情景が浮かんでくる。
  
御祓筋に戻り、坂を降りていくと
大川の水面が見えてきます。
もうそこは八軒家浜。

エレベーターの四字熟語

熊野街道沿いのレンガ色のビル
ここの7階に事務所がある。
 
7階の事務所まで
秋・冬・春は上りも下りも
階段を使うことが多いけれど
さすがに暑い時はイヤだ。
上りも下りもエレベーターを使う。
 
エレベーターで乗り合わせる方は
ほぼこのビルの方ばかり。
顔見知りの方もいるし
もちろん知らない人もいる。
でも乗り合わせたらご挨拶する。
 
ほんの短い垂直移動の時間だけれど
コロナ禍以降ということでもなく
なんとなく、みんなの視線は
通過中フロアを表示するパネルへ。

このパネルに色々なアナウンスや
きれいな景色の写真が出たり
「難読漢字」「四字熟語」のクイズも。
私はこのクイズが好きで楽しみにしている。
 
6月末のこと。
エレベーターに乗りパネルを見ていた。
大好きな「四字熟語」が表示された。
問題は…

「無〇〇中」

「無我夢中」

…と頭の中で答えた瞬間
後ろのおじさんがボソッと答えた。

「無理心中」
 
合ってる。
うん。間違いじゃない。
むしろいいと思う。
でも出題者はソコを期待していないと思う。
聞こえていないことにして
いつものように会釈して7階で降りた。
 
あのおじさんと
次回乗り合わせた時の問題は
「〇肉〇食」がいいな。
 
「弱肉強食」ではなくて
きっと「焼肉定食!」
そう回答してくれそうな気がする。

まだ夏はこれから
しばらくはエレベーターに乗ろう。

パキラ

事務所のドアをあけたら
天井まで伸びたパキラがいる。
朝は必ず「おはよう」と声をかける。
  
もとパキラ…と言った方がいいくらいに
一枚一枚の葉っぱがでっかい。
スクスク育って天井まで伸びて
今度は横向きに枝を広げている。
  
15年以上前の話。
ホームセンターのレジで並んでいる時
レジ横に枯れかけた鉢が置いてあった。
このパキラはその中のひと鉢だった。
 
3本のパキラが三つ編みになった
プレゼントしたら喜ばれる
よくあるおしゃれな鉢植。
3本のうち2本が枯れていた。
でも残り1本は元気に葉をつけていた。
「この鉢はどうするんですか?」と聞くと
「枯れたから廃棄です」と店員さん。
 
まだ元気な木があるのに…と思っていると
「よかったらもっていってください」
以心伝心とはこのこと。
パキラと私の目があった。
お礼を言っていただいて帰った。
   
事務所に連れて帰った40㎝程のパキラ。
2本は枯れていったけど
1本は超元気でスクスク育っていった。
  
数年後今の事務所に移転する時
倍以上に大きくなったパキラは
鉢の土を落とさないよう
ビニールでグルグル巻きになって
一緒に引っ越してきた。
 
前の事務所よりも陽当たりが良いせいか
遠慮なくガンガン伸びて
今では天井に届いて窮屈そう。
頑丈な太い木になってる。
 
木と人もご縁でつながっている。
  
事務所に来て下さった方によく聞かれる。
「これってなんの木?」
「もとパキラです」

八軒家浜

平安時代、上町台地の北の端に
渡辺津という港がありました。
 
古代の難波津が発展し
大江、国府津、窪津、楼津とも呼ばれ
摂津国の政治の中心地となり
戦国時代はもちろん各時代で
この港と川は重要な役割を担い
海陸交通の要として栄えました。
 
江戸時代、船宿などがこの地に
八軒並んでいたことから
「八軒家浜」と呼ばれ
京と大坂を結ぶ「三十石船」の
ターミナルとして淀川舟運の要衝に。

そしてここ八軒家浜は熊野三山への参詣道
「熊野街道」の起点。
   
八軒家浜は多く文芸・美術作品に描かれ
「東海道中膝栗毛」
「浪花百景 八軒屋夕景」
などは、ご存知かと思います。
 
八軒家船着場跡の石碑から西へ歩くと
船宿「京屋忠兵衛跡」があります。
京屋は新選組の定宿。
尊皇志士や新選組は、
ここ八軒家浜から船に乗り
幕末の京・大坂を駆け抜けました。
坂本龍馬とお龍のご縁もここから。
 
お龍は大坂丼池の遊郭に
騙されて売られた妹を取り返すため
京屋に泊まり、懐に短刀をしのばせ、
ひとり遊郭に乗り込んで
妹を助け出したと言われています。
いやぁ。かっこいい…
 
龍馬は京伏見の寺田屋を定宿とし
大坂では京屋の東隣「堺屋源兵衛」を
宿としていたそうです。
 
現在の八軒家浜は川を埋め立て
往時よりも北にありますが
川は変わらずに流れ続けています。
そして歴史も変わらずそこに。
 
八軒家浜に立ち、水面を眺めると
往時の様子が浮かんできます。

背割下水

何これ?…な見にくい写真。
水が流れているのがわかりますか?
これは『背割下水』
通称『太閤下水』です。

豊臣秀吉が大坂城築城の時に着手した
今も現役の石積みの下水溝です。

大坂は淀川と大和川のデルタ地域で
低湿な土地だったので
道路整備と町屋から出る下水を
排水するための下水が整備されました。
 
大坂城の城下町は
大坂城への東西道を軸として
碁盤の目に区切られていました。
その道路に面した建物の
背中合わせ(裏側)に下水溝が掘られ
『背割下水』『太閤下水』と呼ばれました。
 
当時の大坂はこの太閤下水に挟まれた
約40間(72m)四方の区画を
町割りの基本としていました。
 
太閤下水は今も現役で水が流れています。 
現在7kmが大阪市文化財に指定され
事務所の近く、南大江小学校の西側に
地上に設置したのぞき窓から
現役の太閤下水を見ることができます。
この写真はそののぞき窓から撮ったもの。
 
『太閤下水』は申込すれば
地下に入り見学することもできます。

江戸時代以前に作られ、
江戸、明治、昭和と修復しながら
繋がってきた大坂の歴史。
 
いまもなお、太閤下水には
途切れることなく水が流れ続けています。