背割下水

何これ?…な見にくい写真。
水が流れているのがわかりますか?
これは『背割下水』
通称『太閤下水』です。

豊臣秀吉が大坂城築城の時に着手した
今も現役の石積みの下水溝です。

大坂は淀川と大和川のデルタ地域で
低湿な土地だったので
道路整備と町屋から出る下水を
排水するための下水が整備されました。
 
大坂城の城下町は
大坂城への東西道を軸として
碁盤の目に区切られていました。
その道路に面した建物の
背中合わせ(裏側)に下水溝が掘られ
『背割下水』『太閤下水』と呼ばれました。
 
当時の大坂はこの太閤下水に挟まれた
約40間(72m)四方の区画を
町割りの基本としていました。
 
太閤下水は今も現役で水が流れています。 
現在7kmが大阪市文化財に指定され
事務所の近く、南大江小学校の西側に
地上に設置したのぞき窓から
現役の太閤下水を見ることができます。
この写真はそののぞき窓から撮ったもの。
 
『太閤下水』は申込すれば
地下に入り見学することもできます。

江戸時代以前に作られ、
江戸、明治、昭和と修復しながら
繋がってきた大坂の歴史。
 
いまもなお、太閤下水には
途切れることなく水が流れ続けています。

北向きの窓

小さな事務所のドアは東向き。
部屋に入ると
南面は白い壁。
北面は一面大きな窓。

外階段の踊り場にこっそりある
隠れ家のような部屋の場所と
この窓が気にいって
南船場から引っ越して10年ほど。

この北側の大きな窓。
お天気のいい日に
ちょっと頑張って目を凝らすと
六甲山系がちらっと見えたりする。

でも北風が強く吹く日は
『ドーン!』と北風が窓ガラスに
正面から体当たりしてくる。
 
風の強い時に窓を開けると
ブラインドがえらいことになる。
 直角に立ち上がる
 ねじれる
 天井まで跳ね上がる
まぁ壊れることはないけど
音がすごくて…仕事どころじゃない。

寒い日はもちろん窓をあけられない。
それどころかコンクリートだから
一旦冷えたら冷蔵庫状態。
台風の時には
雨が窓に向かって直角に降る。
 
でも一年中部屋は明るい。
夏でも西陽で強烈に暑くなることなく
窓を開ければそこそこ快適。
居心地いいのか植物も良く育つ。

ビルの玄関を出れば熊野街道
左の坂の向こうには生駒連峰
右に下れば松屋町から南船場へ
東横堀川を渡り続いている。
そしてデッカい北向きの窓がある。
 
ここもまた
大好きな場所のひとつ。

糊こぼしの御守り

東大寺二月堂に『糊こぼし』という
可愛い御守りがある。
 
この御守りは修二会本行中に練行衆が作り
ご本尊十一面観音様の仏前にお供えする
造花の椿を模った『糊こぼし』の御守り。
 
本行中の練行衆が造花の椿を作る際
糊がこぼれて白い斑点模様となり
『良弁椿(開山堂の庭椿)』を思わせるのが
『糊こぼし』の名前の由来。
 
数年前から車の鍵に付けていた。
いつも聞こえる小さな鈴の音が聞こえず
ふと見ると鈴がなくなっていた。
車の中や家を探してもなかった。
  
『御守りを落としたときは 
 身代わりになってくれたと思いなさい』
子供の頃、祖父に教えてもらった。
でも椿が寂しそうだった。
 
数日後のいいお天気の朝
仕事に行こうと家を出ると
満開を過ぎた桜が風で散り
自宅前の道がピンク色になっていた。
 
きれいだけれど溝が詰まってしまう。
鞄と車の鍵を一旦玄関に置き
箒と塵取りを持ち花びらを集めはじめた。

桜の花びらを集め、さらさらと
ちりとりからビニール袋に入れていると
ちりとりの隅に丸いものが光った。
御守りの鈴だった。
 
おかえりなさい。

枝を離れた桜の花びらが
大切に守って渡してくれた。

ありがとう。

お隣の桜の老木をしばらく見上げて
いつも通り仕事に向かった。

越中井

散策や散歩にいい季節です。
事務所界隈は歴史が幾層にも重なる場所。
ついつい歩きたくなります。

事務所から歩いて15分ほど。
大坂城の南側に『越中井』があります。

この辺りは豊臣大坂城時代の大坂城三の丸
戦国武将の屋敷が立ち並ぶ場所でした。
『越中井』は細川越中守忠興屋敷跡に。
 
細川ガラシャという洗礼名で
珠子をご存知の方も多いと思います。
越中井は明智光秀の三女、細川忠興の正妻、
細川珠子が世を去った場所。
 
本能寺の変以降、光秀の娘である珠子は
離縁の後、秀吉のはからいで復縁するも
孤独で辛い月日を送ります。
珠子がこの屋敷に移り住んだのは
秀吉のはからいで幽閉先から戻された後。
外出も許されず極限の精神状態の中
キリスト教と出会いクリスチャンとなります。
  
秀吉の死後、石田三成がガラシャを人質に
忠興を味方につけようとしますが
人質となることを拒み、子ども達を逃がし
クリスチャンであるガラシャ自身は
自害は許されない為、家老小笠原少斎に命じ
屋敷を燃やし最期を遂げました。
 
『ガラシャ』とは『神の恩寵』という意味
 
どのような状況でも自身の生き方を貫き
静かに戦い散っていったガラシャ。
その死は神のもとへ旅だつという
幸せな死であったのかもしれません。
 
=============== 
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 
 花も花なれ 人も人なれ
  ~細川ガラシャ 辞世の句~
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東横堀川

ワードネットのある第17松屋ビルを出て
左(東)を見ると生駒山が見えます。
ここは熊野街道と暗越奈良街道
2つの街道が重なる場所。
 
少し東へ上り、南へ行けば熊野街道
そのまま東へ行けば暗越奈良街道
いろいろな人が、いろいろな想いで
奈良へ、熊野へ向かった道です。
  
ビルを出て西へ坂を下り
松屋町筋を過ぎると東横堀川があります。
東横堀川にかかるのは安堂寺橋。
2つの街道へと続くこの道は
心斎橋筋・御堂筋を越え西横堀まで
ここから安堂寺橋通と名を変えます。
  
東横堀川は天正13年(1585)
豊臣秀吉の命で大阪城の外堀として
土佐堀川から続く堀を開削。
西は船場、南は島之内の商人の町。
東は上町台地の寺町や武家の町。
 
東横堀川は島之内あたりで直角に曲がり
道頓堀川となり木津川に流れ込み
大阪湾へと流れていきます。
 
城を護る堀として作られた東横堀川は
人や物を運ぶ水運の役目をも担いました。
また江戸時代には西横堀川との間に
西鶴・近松の作品でも描かれた遊郭があり
東の門はこの安堂寺橋だったとも。
 
東横堀川は往時の面影を残しつつも
いまでは上を阪神高速道路が走り
陽の届かない残念な景観。   
それでも吹く風が水面を揺らすと
一瞬、往時の様子が浮んできます。

貼らないカイロ

奈良二月堂のお水取りも
あと数日で満行を迎えいよいよ春。
昼間は上着がいらない日も多くなり
待ちに待った春。
スギ花粉がおおはしゃぎで飛散するのは
歓迎できないけれど。
 
冬の間、随分お世話になったカイロも
ジップロックに入れてまた来年の冬。

カイロと言えば…色々種類があり
靴下に貼るカイロとか
靴の中に敷くカイロとか
直接肌に貼るカイロとか
みんなそれぞれ頑張ってくれた。
 
そんなコトどうでもいいし。
…と言われるかもですが。
今年よく使ったカイロのネーミングが
どうしても気になる。
 
「貼らないカイロ」
「貼れないカイロ」
 
それぞれのカイロの気持ち
考えたことあります?
ないですよね。
 
「貼らないカイロ」
貼らない目的で買われたカイロ。
ポケットや手袋の中で役に立つ。
カイロ当人もポジティブに
自信をもって仕事してる。 
きっと胸張って前向き。
 
「貼れないカイロ」
貼れたらいいのに…ま。いいか。
あかんヤツみたいな名前がネガティブ。
だってCan’tです。
カイロ当人は卑屈になりそう。
「貼れなくてわるかったね」って。
 
カイロの気持ちを考えると
自信をもって仕事できるよう
来シーズンのネーミングはポジティブに
「貼らない」一本でお願いしたい。
なんだか温かさも違う気がしません?

ネーミングって大事。

金毘羅坂のお百度石

月に一回くらい、朝早くに高津宮へ行き
それから事務所へ向かう日がある。
歩くコースはたくさんあるけれど
お気に入りのコースがある。

高津宮から北へ地蔵坂を横切り
瓦屋町を通って空堀通商店街へと続く脇道
坂がきつくなるあたりに
島津家家紋に奉献の刻字の入った道標と
その反対側にお百度石がある。
  
天明八戊申(1788) の銘の百度石。
今は建物の際にひっそりと佇み
注意していないと見落としてしまう。
  
この細い坂道の名は金毘羅坂。
 
往時ここは金毘羅さんに続く坂だった。
もう坂の由来となった金毘羅さんはなく
商店街の片隅にお百度石と道標。
そして坂の名前以外に名残はない。
 
坂の由来となった金毘羅さんは
大坂三金毘羅の一つで
往時は賑わったようだが
明治時代に高津宮に合祀されたとか。
いまの空堀通商店街は
江戸時代の参道の名残とも。

往時は行き交う人も多く
きっと露店なども並んで
さぞ坂道は賑やかだっただろう
お百度参りの人も多かっただろう。

願いや祈りを胸に
社殿で手を合わせる多くの人の背中を
お百度石はずっとここで
見守ってきたんだね。

かなり早く家を出たはずが
あれこれ想いを巡らせていると
何故かいつもの出勤時間。

お百度石にそっと触れてから
目を閉じ手を合わせて
ちょっと急ぎ足で事務所へ向かう。

空堀通商店街をのぼり
谷町筋を渡って熊野街道へ。
そこはいつもの通勤路。

八重の梅

八重の桜ではないし
綾瀬はるかのファンでもないです。
「プリンセストヨトミ」の次に
この投稿になっただけ。
   
快晴の休日。南紀へ向かった。
この季節、田辺あたりから南は
車の窓を開けると梅の香りがする。
小さな控え目な花だから
目には止まらないけれど
香りで開花を知らせてくれる。
 
もう春だな…と
暖かい春が嬉しい気持ちと
ゆく冬を惜しむ気持ちが
なんとなく複雑で少ししんみりする。
 
海沿いのいつものスーパーに入ると
とてもいい香りがしてきた。
生鮮売場で魚介類を焼く香りではなく
存在感のある梅の香り。
  
香りのする方へ行ってみると
切り花売場には立派な梅の枝。
枝の名前は「八重の梅」
たしかに花びらが重なってる。
値段を見て驚いた…150円。
もう魚介類はどうでもよくなり
梅の枝を買って車に乗せた。

家に連れて帰ると
以前からそこにいたかのように
二階の和室で枝を広げ
蕾をひとつひとつ丁寧に開き
毎日家に帰ると
春の香りで迎えてくれる。
  
そして開ききった花は
ひとつひとつそっと散っていく。
 
畳に落ちた花びらを
手の平にのせようとすると
少し空気が動いただけで
すっと逃げてしまう。
そういえば桜の花びらのように
地面を覆う梅の花びらを見たことはない。
 
華やかではないけれど穏やかな花。
そっと春を告げて
そっと散っていく
そして実を残す
以前から好きだった梅。
今年はいっそう愛おしい。

プリンセストヨトミ

久しぶりに空堀通商店街を
松屋町筋から谷町筋まで歩いてみた。
結構な勾配で地下鉄一駅の距離。
アキレス腱が思い切り伸びる。
  
長い長い歴史の残るこの界隈は
映画「プリンセストヨトミ」の舞台。
 
映画では、綾瀬はるかや堤真一、
岡田将生がこの商店街を
全速力で走っていたけれど
私には絶対ムリです。走りません。
 
ご記憶の方もおられるかもしれない。
中井貴一演じる真田幸一が店主だった
路地奥のお好み焼き屋「太閤」を。
(彼は大阪国総理大臣なのだ)
 
空堀商店街の路地奥には
その店が映画から抜け出たような
昭和32年創業のお好み焼き屋
「ことみ」があった。
残念ながら、あった…だ。
 
頑固で無口な職人のおじいちゃん。
腰の曲がった可愛いおばあちゃん。
お2人で営まれるお好み焼き屋さん。
おもしろいお店の「ルール」があり
はじめて行った時は
注文の仕方からあれこれと
常連さんが教えてくれた。
  
事務所を立ち上げた頃から
コロナ禍前までよく行ったけれど
残念ながらコロナ禍中に閉店された。
    
今も路地奥にはお店の建物が見える。
でも店の場所がわかりにくいから
開店時だけ商店街にポツンと出ていた
「ことみ」の赤い看板はもうない。

「プリンセストヨトミ」はフィクション。
でも上町台地、特にこの界隈を歩くと
いや。ひょっとして?…といつも思う。

安堂寺町のこと

ワードネットは安堂寺町にあります。
正確には安堂寺第17松屋ビルにある。
安堂寺ってお寺があるかと言えば
無いです。正確には今は無い。
お寺はあるけれど安堂寺じゃない。
 
昔…と言っても『日本書紀』の時代。
1000年前やそこら最近の時代ではなく
もっともっと昔のこと
古代の話になってしまうけれど
『日本初期』に記述されている
「安曇寺(あんどじ)」が転訛し
「安堂寺」と呼ばれるようになった。
…という説が一般的。
他に阿曇氏(安曇氏)の拠点が
この辺りにあったからという説も。
 
ちなみに阿曇氏(安曇氏)とは
海神綿津見命の後裔の神別氏族。
信州の安曇野を拓いたのも安曇氏。
日本各地にいた海人集団で
大阪のこのあたりは海も近く
古代より海運の要所となったので
この説にも納得。
 
話が壮大になってしまうので
「安堂寺町」は古くからある町名。
熊野街道が通る町…ということで。
  
狭い地域だけれど、古い町並が残り
「安堂寺」じゃないけれどお寺も
小さな祠や神社もある。
おしゃれなお店やマンション
事務所ビルもあれば昔ながらの商店も。
行列のできる蕎麦屋にインド料理
美味しい珈琲のカフェ…など
あれこれ盛りだくさんの町。

今年もあれこれ楽しみながら
大好きな町でがんばります。