プリンセストヨトミ

久しぶりに空堀通商店街を
松屋町筋から谷町筋まで歩いてみた。
結構な勾配で地下鉄一駅の距離。
アキレス腱が思い切り伸びる。
  
長い長い歴史の残るこの界隈は
映画「プリンセストヨトミ」の舞台。
 
映画では、綾瀬はるかや堤真一、
岡田将生がこの商店街を
全速力で走っていたけれど
私には絶対ムリです。走りません。
 
ご記憶の方もおられるかもしれない。
中井貴一演じる真田幸一が店主だった
路地奥のお好み焼き屋「太閤」を。
(彼は大阪国総理大臣なのだ)
 
空堀商店街の路地奥には
その店が映画から抜け出たような
昭和32年創業のお好み焼き屋
「ことみ」があった。
残念ながら、あった…だ。
 
頑固で無口な職人のおじいちゃん。
腰の曲がった可愛いおばあちゃん。
お2人で営まれるお好み焼き屋さん。
おもしろいお店の「ルール」があり
はじめて行った時は
注文の仕方からあれこれと
常連さんが教えてくれた。
  
事務所を立ち上げた頃から
コロナ禍前までよく行ったけれど
残念ながらコロナ禍中に閉店された。
    
今も路地奥にはお店の建物が見える。
でも店の場所がわかりにくいから
開店時だけ商店街にポツンと出ていた
「ことみ」の赤い看板はもうない。

「プリンセストヨトミ」はフィクション。
でも上町台地、特にこの界隈を歩くと
いや。ひょっとして?…といつも思う。

安堂寺町のこと

ワードネットは安堂寺町にあります。
正確には安堂寺第17松屋ビルにある。
安堂寺ってお寺があるかと言えば
無いです。正確には今は無い。
お寺はあるけれど安堂寺じゃない。
 
昔…と言っても『日本書紀』の時代。
1000年前やそこら最近の時代ではなく
もっともっと昔のこと
古代の話になってしまうけれど
『日本初期』に記述されている
「安曇寺(あんどじ)」が転訛し
「安堂寺」と呼ばれるようになった。
…という説が一般的。
他に阿曇氏(安曇氏)の拠点が
この辺りにあったからという説も。
 
ちなみに阿曇氏(安曇氏)とは
海神綿津見命の後裔の神別氏族。
信州の安曇野を拓いたのも安曇氏。
日本各地にいた海人集団で
大阪のこのあたりは海も近く
古代より海運の要所となったので
この説にも納得。
 
話が壮大になってしまうので
「安堂寺町」は古くからある町名。
熊野街道が通る町…ということで。
  
狭い地域だけれど、古い町並が残り
「安堂寺」じゃないけれどお寺も
小さな祠や神社もある。
おしゃれなお店やマンション
事務所ビルもあれば昔ながらの商店も。
行列のできる蕎麦屋にインド料理
美味しい珈琲のカフェ…など
あれこれ盛りだくさんの町。

今年もあれこれ楽しみながら
大好きな町でがんばります。

冬の紅葉

朝の通勤途中に時々立ち寄るお寺
中庭の手水鉢を覗くと色づいた紅葉が。
例年ならば秋に見る光景
今年もあと2週間で忙しなく
街中がクリスマス気分の中
なんだかほっこりした。
 
そう言えば今年の秋は短く
いつまでも暑いと思っていたら
急に寒くなり、秋を通り越し
一気に冬になった気がする。
 
紅葉もきっと色づくタイミングを
逃してしまったのだろう。
でもそう思うのは人間だけ。
 
彼たちは気温の変化に忠実に
こうして色づいている。
事務所に向かう足を止めて
紅葉にエールを送りたくなった。
  
人間もきっと
自然の変化を素直に受け入れ
先人が残してくれた暦や
季節の行事・習慣に従って
毎日を過ごしていけば
もっと豊かな気持ちで
毎日を過ごせるように思う。

そして追われるように
年末まで走り続けるのではなく
「今年もいい年だった」と
笑顔で一年を締めくくれると思う。
 
あなたにとって
今年はどんな一年でしたか?

師走の街

いつも歩いている街並が
この時期はどこもクリスマス気分。
華やかなキラキラした飾り付けに
ついつい足を止めて眺めてしまう。
 
そういえば毎年この時期になると
亡き父がブツブツ言っていた。
「日本人はお盆だ、彼岸だと
 寺に行って仏に手を合わせる。
 そのくせに、ハロウィンだの
 クリスマスだのと浮足だって 
 七五三だ、年末年始だと
 神社にいく…ったく一貫性がない」

たしかにショッピングモールも駅も
クリスマスの翌朝には
みごとに正月の雰囲気になっていて
「春の海」が流れてたりする。
毎年わかっていてもびっくりする。

父の言うこともわからなくはない。
でもその季節ごとの演出は
気分があがるし、悪くないよね。
まぁ。堅苦しいことを言わずに
宗教や信仰の問題もおいといて
この時期を楽しめばよいのだと思う。
  
御堂筋のイルミネーションも始まり
あまりに綺麗で、車の渋滞も気にならない。
むしろ眺める時間が嬉しかったりする。
 
御堂筋を端から端まで
車でゆっくり走るのも素敵。
ゆっくりと歩くのも素敵。
 
御堂筋とは本当に長いおつきあい。
イルミネーションを見てると
色々なことが浮かんでくる。
「師走は忙しいから」と
駆け抜けてしまわずに
ちょっと立ち止まって
想い出に浸るのも悪くない。

「旬」広辞苑にはこう書いてある。
 
①(旬政・旬儀・旬宴の略)古代、
 朝廷で行われた年中行事の一つ。
 …中略…
②魚介・野菜・果物などが
 よくとれて味の最もよい時。
③転じて、物事を行うに適した時期。日。
 
ざっくりだけど
その時期に適したモノ・コトな感じ。 
食べるモノはわかりやすい。
今一番採れる、出来る
美味しく食べ頃のモノ。
もちろん栄養価も高い。
それは物事でも同じだと思う。
適した時期がある。
 
日本には四季があって、
四季それぞれに旬の食べ物がある。
ハウスや工場で野菜や果物が栽培され
いつでも欲しいモノが手に入る時代。
 
でもね。
四季それぞれの体調に合った
自然に逆らわないモノを食して
寒い時は寒いなりに
暑い時は暑いなりに
暮らしていけば良いように思う。
  
真冬に屋外で西瓜を食べたくはない。
ギラギラ太陽が照り付ける夏に
空の下で食べる旬の西瓜は最高。
でも真冬は熱々の焼き芋がいい。

野菜にも果物にも穀物にも
ゆっくり季節の移ろいの中で
その季節の雨や太陽を浴びながら
ちゃんと育って欲しい。
その恩恵を感謝しながら頂きたい。

人間も同じ。自然の一部。
自然に逆らうことは不自然。
いや、逆らうことはできないはず。
自然をコントロールした気になり
調子にのっていると
必ずひずみが生じてバランスを崩す。

先人が残してくれた知恵を大切に
季節の暮らし方や文化を学び
旬のものを口にして
時間を重ねていけたら
身体も心も健康に豊かになる気がする。

今夜は季節の野菜で鍋だな。

栴檀林跡

事務所への電車通勤
毎日ではないけれど
地下鉄には乗らず「熊野街道」を歩く
たしかに私は地下鉄が嫌いだけれど
あれこれ往時をしのびながら
熊野街道を歩くのが好き。
   
谷町九丁目から八丁目のあたり
熊野街道から少し西に入ると
夕願寺という小さなお寺の前に石碑がある。
 
「立正学院 旧大阪本化栴檀林跡」
 
説明も何もない。
でも「栴檀林」とは
僧侶が集まる仏教の学問所のこと。
そして「本化」とは日蓮宗を意味する。
つまりここは日蓮宗のお坊さんが集まり
学んだ場所だったのだろう。
  
今は石碑を残すだけで
詳しいことはわからない。
 
でもやたらとお寺の多い上町台地に
僧侶の養成機関があったとしても
まったく不思議はない。
 
栴檀林はあちこちにある。
学林、僧林、栴談林とも言う。
 
浄土宗の関東十八檀林とか
日蓮宗の下総や飯高檀林
天台宗の関東十檀林
曹洞宗の江戸吉祥寺に
真言宗は田舎檀林と称して
各地に檀林を作ったらしい。
檀林を基とした大学もある。
 
ややこしいことはおいといて…
 
このDiary にも時々書いているけれど
上町台地には医学から宗教まで
学びたい人が学べる場所があった。
浄瑠璃や文壇など
後世につながる文化も生まれ
日本経済の基礎を築いた舞台でもある。
 
大阪と言えばコナモン!
…だけではないのですよ。

通勤路の金次郎くん

「二宮金次郎」のちの「二宮尊徳」
昔はどこの小学校でも校門の横とか
校庭の隅とかに居た子ですね。
 
この子のプロフィールご存知ですか?
「偉人」とご記憶かもしれません。
 
金次郎は裕福な農家の長男に生まれる。
5歳の時に自然災害で田畑も家もなくし
14歳で父が亡くなってからは
昼も夜も働き、借金を返しながら
一家を支え、薪を売りに行く道中も
時間を惜しんで歩きながら学びます。
16歳で母を亡くし苦労を重ねますが
20代で家を再興してからは
多くの村や地域の救済や再興を行い
貧困に苦しむ人を救います。
後に幕府の役人になり
生涯600以上の村を立て直した
地方創生のパイオニアです。
   
銅像のスタイルは『負薪読書』
金次郎の弟子の高田高慶が
金次郎の没後に出した『報徳記』に
描かれた姿に基づいたものだそうです。
 
銅像が立てられ始めたのは大正時代。
最初は国の政策の為でしたが
純粋に勤労・勤勉のモデルとして
小学校に立てられるように。

けれど銅像は各時代に
様々な理由で撤去されていきます。
戦時中は兵器に作りかえる為。
高度成長期には車が増えて
歩きながらの読書は危ないから…と。
 
最近では「歩きスマホ」に通ずると
撤去される銅像も少なくなく
座って読書する金次郎くんもいるとか。

歩きながらの読書は危険。
でも目に見える銅像の形ではなく
貧しくても学ぶことを諦めず
働きながらも時間を惜しんで学び
多くの功績を残した二宮金次郎。
その生き方と銅像の意味を
ちゃんと伝えていきたいものです。

通勤路の金次郎くんは
今日も本を片手に勉強中。

彼岸花

田んぼの稲が金色に輝く頃
畦道では彼岸花が満開に。
毎年この光景を見ると
秋だなぁと思う。
 
子どもの頃、畦道の彼岸花を
一輪摘んで家に持ち帰り
母に叱られたことがある。
  
確かに墓地によく生えてて
縁起が悪いと言われるし毒もある。
でもそんなに嫌わなくても…。

たぶん「彼岸花」の名前も
嫌がられる一因なんですよね。
でも「曼殊沙華」とも言うよ。
この名前なら悪くないでしょ。
サンスクリット語で「天界に咲く花」

畦道によく生えているのは
その毒でモグラやネズミから
稲や作物を守るため。
墓地に生えているのは
埋蔵された遺体を守るため。
もともとは人が植えたという話も。
 
ともあれ秋の訪れを教えてくれる。
10月になっても暑い日が続くと
人間はすっかり油断して衣替えもせず
寒くなってから慌てふためく。
薄い布団で寝て体調を崩して
「急に寒くなった」と言う。
  
彼岸花が満開になり
金色の稲穂が首を垂れると秋。 
そう。
変わる季節を教えてくれるのは
気象庁ではなく、いつも自然。

秋は短く冬の知らせはもうすぐ。

大村益次郎

事務所から北東に徒歩10分
上町交差点の右には難波宮跡公園
その向こう側に大阪城が。
左の大阪医療センターの南東角に
大きな石碑がそびえ立っています。

兵部大輔 大村益次郎卿 殉難報國之碑
  
大村益次郎が動乱の時代を生き
その一生を終えた場所。
学校で学んだり、小説やドラマで
その名を耳にしたことはあると思います。
   
優秀な医者であり、兵学者であり、
日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる
維新十傑のひとり大村益次郎。
 
===================
 
大村益次郎は文政七年(1824年)
周防の町医者の家に生まれる。
弘化3年(1846)23歳で来坂し適塾に。
僅か1年で塾頭になっている。
 
明治2年(1869)兵部大輔に任ぜられ、
近代陸軍兵制の確立に尽力したが
反感を持つ不平士族に
同年9月に京都木屋町で襲撃された。
 
右脚に重傷を負ったが
京都では適切な治療ができず
上町大福寺から移転した浪華仮病院へ。
右脚切断の手術をうけたがすでに手後れ
敗血症のため死亡した。 
   
その切断された脚は大村の遺志により、
師である緒方洪庵夫妻の傍らに
寄り添うように葬られている。
 
===================
 
石碑が立つのは浪華仮病院のあった場所。
ここは後に国立大阪病院となり
現大阪医療センターへと繋がります。
 
幕末から明治へと
この時代に日本を変えようと
命懸けで駆け抜けた志高い人々と同様に
大村益次郎も小説などでは
色々な描き方をされています。
 
でも人々の命を救おう。
ひとつの国の未来を変えようと
日本が大きく動きだした時代に
大きな力となり、散ったことは事実。
 
大村益次郎にご興味があれば
「花神」司馬遼太郎著 をぜひ。
季節はまもなく読書の秋です。
  
※2021年11月のDialy
「浪華仮病院跡」もご参考に 

西瓜

9月になってスーパーの果物売場は
無花果、葡萄、梨…とすっかり秋。
つい先日まで主役は西瓜だった。
西瓜が果物か野菜かはおいといて
スーパーでは100%果物売場にある。
 
子どもの頃、夏になるといつも
冷蔵庫の棚がひとつ外してあり
二段分の棚は大きな西瓜専用だった。

夏の暑い日に外から帰ったら
手を洗ってすぐに台所へとんでいく。
まな板に並んだ半月型の西瓜を
どれが大きいか見定めてから
自分のお皿に移してほおばった。
 
「種を食べたら盲腸になる」
いつも母がそういうので
几帳面にお箸でほじくりながら食べた。
でも中学一年生で盲腸になった。
次の夏から、種も食べた。 

「お腹の中で芽がでるわ」
今度はそう言われた。
でも種を食べ続けてもう何十年。
まだ一度も発芽していないし
おへそから蔓も出てこない。
 
いまも変わらず西瓜が好きだけど
さすがに一人暮らしだと
大きな西瓜ではなく
いつもこだま西瓜を買ってくる。
 
先日、道の駅のすみっこに置かれ
寂しそうに肩身が狭そうにしている
半額のこだま西瓜を買ってきた。
棚落ちしてるけど甘い。
今年最後の西瓜も種ごと食べた。