真田山陸軍墓地

写真の大木は
陸軍墓地の東側に立っている。
三光神社にある真田の抜け穴横から
階段を上った高台に立つ木。
  
御神木ではないけれど
陸軍墓地を東側から
ずっと見守ってきた木。
 
この高台の木に背を向けると
都会とは思えない静謐な空間に
整然と並ぶ墓標と納骨堂が目の前に。
フェンス越しの高い所からになるけれど
手を合わせることができる。
 
このあたりは真田信繁が築いた
大坂城の出城「真田丸跡」
真田幸村が徳川を迎え撃った古戦場。
  
そして昨年9月に
当DIARYの記事でご紹介した
「騎兵第四聯隊」が置かれた場所。
旧日本陸軍の歴史が色濃く残る場所。
  
『真田山陸軍墓地』は
明治4年にこの地に作られた
日本で最初の陸軍墓地。
 
明治6年の徴兵令施行以前から
西南戦争、日清戦争、日露戦争
第一次世界大戦、第二次世界大戦…と
戦争で亡くなった方の墓標が5000余柱
納骨堂には42000余柱。
そこには多くの方が眠っておられる。
訪れる人もあまりおらず
荒涼としているけれど静かな場所。

色々な考え方や意見があると思う。
でも、脚色されいない
誰の意見も加えていない
座学では学べない日本の歴史と事実を
この場所は五感に語りかけてくれる。
このまま残したい、残すべき場所。
  
ちなみにこのあたりは
ひとまとまりで「真田山」と呼ばれるが
三光神社のあたりは真田山ではなく
真田山に隣接した「宰相山」という別の山。
  
上町台地は
多くの歴史が何層にも重なった場所
残したい場所・風景がたくさん。

710号室

安堂寺第17松屋ビルの7階
廊下突き当りの非常階段。
その踊り場にある小さな部屋。
ここが710号室。
 
南船場から引っ越してきて10年以上。
宅急便屋さんから時々電話をもらった。
 
「あの~。ワードネットさんですか?
 第17松屋ビルの7階にいるんですが
 部屋がないんです…」
 
住所に部屋番号も書いてある。
地下に郵便ポストもちゃんとある。
でも配達にいくと部屋がない。
これ。ちょっとしたミステリー。
  
「すみません。7階廊下の突き当り
 防火扉を開けると左にあります。」
  
非常階段への出口に扉があり
その先に部屋があるとは思えない。
…ってことね。
 
ビル自体の場所はわかりやすいけれど
はじめてお越しいただくお客様には
住所をお知らせする時に
『防火扉を開けた左にあります』
とお知らせするか
地下鉄⑤出口までお迎えにいく。
 
数年前。
郵便屋さんが書留を届けに来て
同じような状況になり、
管理人さんに聞いて届けてくれた。
その数日後、防火扉にプレートが付いた。
 
『扉の外側に710号室があります』
  
最近はプレートがしっかり仕事して
ミステリー事件もなくなった。
 
でもこの隠れ家的な感じが好きで
見つからない…と連絡があった時
ちょっと嬉しかったりしたけれど。
 
弊社にお越しの際は
廊下突き当りの扉を開けると
左にドアがあります。
 
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

元住友家本邸ビリヤード場

南船場にあった旧事務所の窓から
長堀通の向こう側に
窓のない大きな建物が見えた。
地図に施設名は書かれていない。
 
鰻谷南通を挟んだところに
三井住友銀行事務センターがあり
銀泉データセンターかもと思う。
     
その敷地の東側に
「住友銅吹所跡」と
「元住友家本邸ビリヤード場」がある。
    
ビリヤード場の壁は土蔵造り、
屋根は瓦葺き、和洋折衷で
今見ても本当に素敵な
文明開化期の擬洋風建築。
独立したビリヤード場としては
我が国最古のもの。
ここには住友家の屋敷があった。
  
寛永年間(1640年頃)
上町台地より西の東西横堀川と
道頓堀、長堀に囲まれた島之内。
ここに大規模な住友銅吹き所があった。
 
住友家は平家末裔の戦国武士だった。
家の「家祖」と事業の「業祖」がおり
とても長い長い複雑な歴史がある。
  
住友家と精銅の歴史の端緒は
天正19年(1591年)住友理兵衛友が
泉州堺浦に来た明人の白水から
「南蛮吹き」と称される
粗銅から銀を分離する精錬法を
学んだことから始まった。
   
当時の日本では、まだ粗銅の中に、
金・銀等が含まれていると知られておらず、
金や銀を分離する精錬技術もなかった。
 
この「南蛮吹き」で住友家は
粗銅から銀を取り出し、
膨大な利益を上げるようになった。
  
明治9年に銅吹所が廃止され
この敷地は住友家の邸宅となった。
明治12年には洋館や庭園が造られ
その東側にこのビリヤード場が建てられた。
 
初代住友政友が350年前に残した言葉
「確実を旨とし浮利に趨らず」
そこには社会、国家を背景とする考えがあった。
 
事業や企業だけのことではなく
信用を重んじ確実を旨とする…
この姿勢は誰もが大切にしたいこと。
 
時代の進化が加速する今
先人の教えに立ち返る時かもしれない。

事務所からの眺め

1995年から2012年まで
WORDNETは南船場にあった。 
  
その頃から今の事務所のあたりや
古い街並みが残る谷町界隈が好きで
近鉄上本町駅から歩いて通勤したり
気分転換に自転車でウロウロ。
    
熊野街道にある今の事務所は
当時の南船場の事務所と
ほんの1.5㎞ほど離れただけなのに
情緒があって素敵な通りだった。
 
『このあたりに事務所があればいいな』
とずっと思っていた。
 
当時の長堀通に面した事務所は
南向きのベランダがあったけれど
車の音や人の声、信号の音
観光バスが待機するエンジン音で
お天気がよくても窓は閉めたまま。
落ち着かない場所になっていた。
  
家賃も翌年より値上げになるので
少し前から移転を考えていた。
   
今の事務所ビルの前で立ち止ると
お掃除されてる管理人さんと目があった。
 
『このビルは大きな部屋ばかりですか?』
…とお尋ねすると
『小さな部屋あるよ。』
しかも一部屋空いているらしい。
『見てみる?』と言っていただいた。
    
ビルに入るときれい。そして静か。
谷町筋と長堀通の直近とは思えない。
  
部屋に入ると北側の壁が一面窓。
北向きだけど、本当に明るい。
窓からの景色はマンションやビルだけど
間に低い民家が多く大きな空間がある。
 
見晴らしいがいい。空が近い。
北西のビルの間に六甲山が見えた。
即決でここに引っ越すことにした。
 
今でも、窓からの景色は
いろいろな表情を見せてくれる。
昼間は明るく、大きな空が見える。
夕方はちょっと西へ目を向ければ
美しい夕焼けが見える。
夜はマンションやビルの灯りが美しい。
 
好きな場所で仕事ができる。
熊野街道にある小さな事務所で
珈琲を淹れながら
『素敵』といつも思う。

空堀通商店街

空堀通商店街は
東は上町筋から西は松屋町筋まで
高低差10m、長さ800m程の商店街。
以前このDIARYでご紹介した
プリンセストヨトミの舞台。
 
古き良き商店街の姿が残っており
肉屋、魚屋、鶏屋、八百屋。
豆腐屋、乾物屋、干物屋。
昆布屋、果物屋、花屋。
金物屋、下駄屋、書道具屋
お香屋…などなど
今はもうすっかり減ってしまった
お店の方との話を楽しみながら
お買い物できる貴重な商店街。
 
創業100年以上の昆布の土居さんは
お店の建物も一見の価値が。
佃煮、出汁昆布、昆布塩、昆布飴
なんでも美味しい+安い+安全。
また大阪の伝統昆布文化を伝える
「大阪昆布ミュージアム」
を主宰されています。
 
お豆腐の岡田屋さんは
今も水槽に浮かぶお豆腐を取り出し
滑り台のような機械で袋に。
油揚げはもちろん店頭で揚げたて。
豆乳やおから、湯葉も絶品。
 
古い町家や店舗をリノベーションした
おしゃれなカフェや美味しいお店も多く
買い物と食事が楽しめます。

商店街は先が見えない程の
高低差で、西から東へ歩くと
ずっと坂道を上っていくので
散策は東から西へ降りるのがオススメ。
  
DIARYでいくつかご紹介していますが
商店街から北や南に伸びる道も
坂道が多く、今も多くの町家が。
それぞれに歴史と物語があり
横道に逸れても風情が。
 
昔ながらの商店街には
大型店舗にはない魅力があります。

正倉院展

秋とは思えない気温の11月。
今年も正倉院展へ。
  
子供の頃、よくわからないまま
祖父に連れられて毎年通い
祖父が他界してからも
毎年足を運び
もう何十年と続く恒例行事。
  
毎年湿気の少ない秋に
正倉院の勅封が解かれて
宝物の点検が行なわれます。
 
そのタイミングで研究成果のあった品や
話題になった品など
正倉院正倉の9000点から
いろいろ偏りなく選ばれた品を
奈良国立博物館で
一般公開するのが正倉院展。
  
第1回正倉院展が昭和21年に
当時の奈良帝室博物館で開催されてから
今年で75回目。
東京での開催も昭和天皇即位など
記念開催が過去3回ほどあったけれど
正倉院のお膝元にある
奈良国立博物館看板の大きな特別展。
  
ガラス越しではあるけれど
光明皇后や聖武天皇が愛でた品や
遠く大陸を越え渡ってきた品や献上品。
戦国時代をはじめ、
その時代時代のいわくのある品々が
当時と同じように美しく輝き
1200年の時を越えて目の前にある。
奇跡だと思いませんか。
   
1200年以上この宝物を守ってきたのは
ヒノキで組まれた正倉院正倉と
ずっと繋がれてきた人々の想い。
そして守り伝えてきた皇室。

正倉や宝物がもし語れたなら
宝物ひとつひとつに歴史があり
壮大な物語が聴けるだろうな…と
ドキドキしながら図録と正倉院グッズを買い
横断歩道を渡る鹿を見ながら
名残惜しい奈良国立博物館をあとに。
 
二月堂のお水取りで春が来て
正倉院展で秋が深まります。
  
※第75回正倉院展は11月13日まで。

空堀の名残り

事務所に近い空堀商店街。
この地名の由来は「空堀」

「空堀」は堀の一種で
堀は地面を細長く掘った構造。
古くは弥生時代からあったらしく
戦国時代には城への敵の侵入を防ぐ為
各地の城で作られました。

大坂城をはじめ、城の堀というと
水をたたえた堀を想像しがち
でも「空堀」は水が枯れたのではなく
もともと水のない堀で別名「壕」とも。
 
大坂城の「空堀」は冬の陣の講和後に
本丸を残し二ノ丸以下の壕が埋められ
いまはもう残っていないけれど
その名残はあちこちに。

空堀界隈はもちろん
通勤路にはその名残が数多くあり
表通りに面した町家は一見平屋でも
坂や階段を降りて裏通りから見ると
空堀の斜面を利用したのか
立派な3階建だったりします。
 
ワクワクしながら階段を降りたり
裏道を歩いて違う坂道から登ったり
往時に想いを馳せながら歩くわけです。
  
狭い階段や坂を降りた先で
素敵なお店や町屋を見つけることも。
普通に歩けば20分の通勤路を
横道にそれながら1時間近くかけて
事務所まで歩く日もしばしば。
 
散策を楽しむ時間も想定して
朝は早めに家を出て
もちろん9時前には事務所に。

毎日の通勤もせっかく歩くなら
楽しまなきゃ損。

事務所の植物たち

今年の夏は本当に暑く長かった
事務所も昼間はエアコンで
仕事に最適な温度を保っているけれど
誰もいない夜や、週末など
閉め切ったコンクリートの事務所は
観葉植物たちにとって過酷だったと思う。

何度かDiaryで紹介した
船場の事務所から連れてきた植物たち。
カポックやポトスにハイビスカス
名前がわからない観葉植物たち
みんな一緒に四季を過ごしてきた。
  
10年くらい前に植木鉢が割れたので
根っこを洗って水に挿した水栽培も。
居心地が良いのかそれからずっと
狭いエアコンの上で上手に枝を張り
伸び伸び元気に成長してくれている。

この夏の暑さに耐えてくれた植物達。
ハイビスカスだけはお盆を過ぎて
葉を落とし幹と枝だけになってしまった。
 
このハイビスカスは
船場の月極駐車場の女将さんが
切り花にくださった一輪だった。
花瓶の中で根が出てきたので
土に植えるとスクスク育ってくれた。
 
事務所は冬も植物には厳しい環境。
暖房で昼間は暖かい。
でも北向きの大きな窓からの冷気で
夜はかなり冷えて寒暖差が大きい。
南の国の木には厳しい環境だったのに
花は咲かないけれど
ずっと事務所に居てくれた。
 
枯れたハイビスカスの鉢にも
他の植物たちと同じように
土が乾いたら水をあげている。
「春にまた会えるといいな」
と話しかけながら。

騎兵第四聯隊

真田山。
ご存知の方も多いかと思います。
大坂城の南側に築かれた山城
そう真田丸のあった場所。
  
真田山には多くの重なった歴史があり
三光神社をはじめ鎌八幡など
神社仏閣もたくさんあり
少し歩くと石碑や顕彰碑があちこちに。
 
真田丸跡(真田丸顕彰碑)から
少し南に騎兵第四聯隊忠魂碑があります。
明治時代、ここ真田山には
大坂第四師団所属騎兵第四聯隊が。
  
騎兵第四聯隊は明治22年に創立。
日清戦争、日露戦争に出動。
その後、隊は昭和7年に堺に移転し
騎兵第四聯隊跡地は大阪市が
昭和14年に真田山公園として整備。
いま真田山のあちこちにある
小さな公園はその名残です。
   
いまは学校も多く穏やかな真田山。
ここで騎馬隊が訓練していたとは
想像もできないけれど
戦国時代には大坂城を守る為
ここは戦いの舞台になり
明治以降の戦争では戦いに向かう為
騎兵第四聯隊がありました。
  
現在の大坂城公園あたりには
陸軍本部をはじめ砲兵工廠など
数々の陸軍施設があり
その南に騎兵第四聯隊がありました。
そんなことを考えていると
どこか真田丸と重なってしまいます。
   
そして真田丸顕彰碑の少し東に
数多くの英霊が眠っておられる
旧真田山陸軍墓地があります。
こちらはまた別の機会に。

いろは湯

事務所を出て、谷町筋を渡り
熊野街道から少し入ったところに
大好きな銭湯「いろは湯」が
昨年末まであった。
 
10年ほど前は
徹夜になる…と思った日は
気分転換にこの銭湯に行った。
その帰りに谷町界隈で食事して
また仕事をしたものだ。
 
夏の暑い日に自転車で
あちこち走り回った夕方に
ひと風呂浴びたこともあった。
 
暖簾をくぐると玄関はタイル張り
下駄箱には木の蓋があり
ガラス戸を開けると番台が。
男湯と女湯の真ん中に
どちらの脱衣場に向くこともなく
おばさんかおじさんが座っていた。

脱衣場にはデッカい扇風機。
ロッカーではなく、扉のある木の棚。
ゴムのついた鍵が付いていた。
浴場の正面の壁には壮大な富士山。
湯船はタイルで装飾されていた。
洗面器は黄色のケロリン。

湯船のお湯は暑くてなかなか入れず
ぼちぼち慣らしてから入った。
洗い場では曇った鏡を見ながら
水が出る蛇口と湯の出る蛇口を
両方同時に押して湯温を調整した。
 
風呂上がりには小さな冷蔵庫から
フルーツ牛乳やコーヒー牛乳を出して
番台に持って行きお金を払う。
「いろは湯」は正しい日本の銭湯だった。
   
コロナ禍でテレワークが増え
仕事場から銭湯へ行くこともなく
銭湯の前を通ることもなかった。
 
やっと元の生活が戻ってきた1月
ひさしぶりに前を通ると
「2022年12月末で閉店しました」
と小さな張り紙があった。
 
コロナ禍がきっかけだとは思うけれど
このあたりにたくさんあった
お風呂のない長屋や古い町家も
どんどん減っていったし
銭湯の需要も減ったのだろう。
仕事中に銭湯に行く妙なヤツも
居なくなっただろうし。

家のお風呂もスーパー銭湯も快適。
でも地域の人に愛されてきた
「日本の銭湯」には違う魅力があった。
 
もう一度入りたかったな。
半年早く前を通ればよかったな。

あれこれ考えていると
開店前いつもそうしてあったように
シャッターの向こう側に
暖簾が裏向きでかけてある気がした。